普通のお母さんがほしかった ー詩織さんの場合ー

詩織さん(30歳)は、都内で介護士として働いていたが、現在は休職中。2度目の鬱と診断され、紹介されたクリニックのカウンセリングに半年前から通っている。

今日は6回目のカウンセリングだ。以下、詩織さんが語っていく。

「前回、先生に、私の母親は軽度の知的障がいがあると教えてもらいました。

私、『そうなんですか』と言ったと思うのですが…

本当は鈍器で頭を殴られたような衝撃でした。

全く考えてもみないことでした。

カウンセリングが終わって、気づくと辺りは真っ暗で、

駅員さんに声を掛けられました。

半日近くベンチに座ってたみたいです。

どうにか帰宅して、それから数日間ずっと寝込んでいました。

その間どうやって生きていたのかあまり覚えてないけれど、

ロクな生活していませんでした(苦笑)

天井を見ながら…目の前に色々な光景が浮かびました。

もうずっと長い間忘れていた記憶が、物凄い勢いで再生されました。

夢を見ているのか、それとも私はついにおかしくなったのか…

けれど母がどんなだったか、記憶を見ながら色々思い出しました。

今までずっと、あの人は私が出来損ないで憎いから、あんなことをしてきたんだと思っていました。

どこを直せばいいのか必死に考え続けて…

母の望むような娘になりたいって、ずっと思ってたんです。

そしたら振り向いてくれるって。

恋人はいらなかった。私は母に愛してもらえれば何もいらない。

けれども、何をしても裏目に出て、どうやってもいい娘になれない自分を責めていました。

でもあの日、先生に母の障害のこと聞いて…

母は親にはなれない人なんだって。

私のこと、見ようとしてなかったんじゃなくて、見えない人だったんだって、分かりました。

理由なんて、なかった。

私は自分が異常な人間、発達障害か何かかと思っていたけれど…

私の母が普通ではなかったんですね。

私、ずっと怖かった。

何もかも通じなくて、私には言葉が消えていった。

普通のお母さん、欲しかった。

手を繋いでもらいたかった。

私のことを見てほしかった。

普通の子供になりたかった。

親のことを前のカウンセラーさんに話したら、「貴方の母親は最低だ。」と言われたことがあります。「鬼畜だ」とまで言って、カウンセラーさん、物凄い勢いで怒っていました。親の悪口を話してしまっても、非難されなかったことには安心したけど、複雑な気持ちになった。

そんなことを言ってほしいんじゃなかった。何も言えなくなってしまった。

お母さん、好きになりたかった。

愛されるってどういうことなのか、感じてみたかった。

私はずっと一人ぼっち。

誰にも助けを求められない。人に心を許せない。

部屋に一人でいても、気が休まらない。

怖かった。

障害のことを知って、母がいつか私に振り向いてくれるっていう願いが消えていきました。

そんな日は来ないと分かって、絶望しました。

天井を見ながら、幼い私が涙を流していました。多分今もまだ…。

…でもそれは、もういい。

私はもう、消えてしまいたい。

なんだか疲れました。」

40分のほど話をし、詩織さんが、静まった。静かに涙を流していた。

カウンセラーが口を開いた。

「お話聴かせていただきました、

この数日間は特に、辛かったと思います。

親の障害を告げられた方々は概ね皆さん、動けなくなってしまいますから…

貴方の反応はごく、自然なものです。

前にも説明しましたが、貴方に発達障害はありません。ごく正常の知能です。あなたが、お母さんのような障害があれば、ここまで苦しみません。

貴方の家族には、貴方を育てられる人がいなかった。

保護者が一人もいない。気持ちが通じる人が誰もいなかった。

貴方は一人ぼっちで育ち、そしてその孤独を、誰にも気付いてもらえなかった。

我慢していること、緊張していること、怖かったことにも気づかないほど、

貴方は死にもの狂いに生きてきた。

それは幼い子供にとっては大変な恐怖で、壮絶な育ちです。

やっとそのことに気づけたと思います。

しかし、まだまだ強い恐怖があるのでしょう。」

カウンセラーは10分ほど、詩織さんの状況を説明し、カウンセリングを終えた。

「ゆっくりでいいですから、またお話を聞かせてください。今日はゆっくりお家で休まれてくださいね。

 次回の予約は取られますか?」

詩織さんはゆっくりと頷き、手帳を取り出した。

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