19歳の真衣さんにはそれぞれ父親の違う兄妹が2人いるが、兄に会ったことはない。
母、2歳下の妹と3人で暮らしている。共に暮らしているといっても、妹は週の半分くらいしか家にいないし、母親に至っては1か月に数日しか戻ってこない。
母が家を空けるのは子供のころからなので、もう慣れっこだ。
真衣さんの幼少時代で覚えている風景は、電気が度々止められていた薄暗い家の中か、車中の中だった。泣いてる妹と二人、いつもお母さんの帰りを待っていた。家にある菓子パンやスナック、ふりかけ、ケチャップ、塩、レンジ前のサトウのごはんなど、とにかくあるものでどうにか空腹をつなぎとめた。お腹が空いては眠り、眠れなくなっては妹を連れて夜公園に行ったりと、多分生活リズムはめちゃくちゃだったように思う。
でもいつお母さんが戻ってきてもいいように、外にいる時間は最小限にしていた。
たまに帰ってきてくれるととても嬉しかった。
たくさん話しかけるとすぐ出て行ってしまうので、あまり迷惑をかけないようにいい子にしていたが、妹が甘えようとしていて、凄く疎ましかったことを覚えている。そういう日はお母さんがまた出て行ってしまった後、妹のご飯をへらしたりしていた。
ほどなくして電気が付くようになるのは決まって、母が家に新しい男の人を連れてくるようになる頃だ。その日の前日はいつも早く帰ってきて家を必死に片づけており、自分たちも手伝っていた。役に立っている気がして嬉しかったし、お母さんと一緒にいられる時間が嬉しかった。そして男の人が来る日は本当に優しくしてくれたし、御馳走が食べられた。だけど、その時間は長くは続かない。しばらくすると、母は男の人の家に行くようになり、また帰ってこなくなるのがお決まりのパターンだった。「〇〇さんがお金をくれるから、電気がくるし、食べ物を買ってやれるんだよ。〇〇さんに感謝しなさい」と言われていた。「お母さんは私たちにご飯を与えるために、お外で頑張っているんだ。私も頑張らなくちゃ。」と思った。
小学生にあがる前、児童相談所から保護された。入学説明会に来ず、母に連絡が取れないということから、母が不在の時に大人たちが家に来た。母は家事を殆どしなかったので、家は悪臭とゴミだらけだったことと、私たち二人の体重がとても少なかったという事で保護になった。暴力を振るわれたことは殆どなかったし、お母さんと一緒に暮らせなくなることは本当に悲しかったが、施設で出た見たこともないご飯の美味しさに驚愕したし、部屋はきれいで、エアコンやストーブ、毎日お風呂にはいれる暮らしに、心のどこかでほっとした。
数年前、施設を出た際に、入所したころの写真を見た。当時自分を鏡でちゃんと見るようなことがなかったので気づかなかったが、本当に病的にやせ細っていて、「よく生き延びたな」と自分でも苦笑いしてしまう程だ。ご近所さんもいたと思うが、なぜそういう状況が気づかれなかったのか、今となってふと不思議に思う。
でも気づかれないのも当然かもしれない。なぜなら、こんなにも病的に痩せていたにも関わらず、施設の人に言い聞かされた「お母さんに酷いことをされていた」とは、私自身全く思えなかったからだ。施設の他の子たちの話を聞くと、毎日殴られたり酷いことを言われたりしていたけれど、私はお母さんがあまり帰ってこなかった(しかもそれは私たちにご飯をくれる男の人を探すため)というだけでお母さんは自分たちをちゃんと愛してくれていた。確かに保護されなかったらいつか飢え死にしていたかもしれないけれど、それはただの不運なだけ。お母さんは男の人も、誰かの助けも必要な人だった。だから、恨んではない。
真衣さんはそう思っている。
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