それは「しつけ」の延長ではない。
近年、児童虐待防止法の改正により、しつけと称した体罰が全面的に禁じられるようになりました。
ニュースで痛ましい虐待死事件が報じられるたび、痛ましい事件としつつも
コメンテーターたちは神妙な顔でこう締めくくります。
「私も子育て中の身ですが、子育ては本当に大変です。
【孤育て】とならないよう、SOSを出しましょう。」
「追い詰められたら、誰だって虐待してしまうかもしれない。
明日は我が身です。」
一見、子育てに奮闘する親たちへの配慮のある言葉に聞こえます。
しかし、虐待という地獄を生き延びたサバイバーの方々の胸には、
どうしても拭いきれない違和感、あるいは激しい拒絶反応が残るのではないでしょうか。
「あんなことが、『誰にでも起こりうる』ことなのか?」
「私の親も、ただ少し追い詰められていただけなのか?」
もし、虐待が「普通の育児の延長線上」にあるのなら、
あなたを傷つけたあの親もまた、「普通の親」だったことになってしまいます。
そして、「普通の親」をそこまで追い詰めたのは、
手のかかる子供だった自分なのではないか――。
そうやって、またしても自責の迷路に迷い込んでしまうのです。
今日は、その誤解を解きましょう。
はっきりお伝えします。
「真の虐待」は、普通の育児の延長線上にはありません。
そこには、グラデーション(程度の問題)ではなく、
「決定的な断絶(越えられない壁)」が存在します。
この記事では、世間で混同されがちな「普通の親の失態」と「虐待」の違いを、
感情論ではなく、客観的な観点から明確に切り分けます。
これを読めば、あなたが受けたものが「しつけ」でも「愛の鞭」でもなく、
ましてや「親の未熟さゆえの過ち」でもない、
もっと別の、異質な現象であったことが腑に落ちるはずです。
第1章:普通の親の「失態」とは何か
まず、誤解を恐れずに定義しましょう。
以下の行為は、本質的な意味での「虐待」ではないと、本ブログでは明言します。
- カッとなって頬を叩く、突き飛ばす
- 感情的に怒鳴り散らす
- 「お兄ちゃんのくせに」「弟でもできることなのに」などと兄弟を比較して傷つくことを言う
- 「ご飯抜き!」と言って一食抜く、あるいは無理やり食べさせる
「えっ、それらも十分虐待では?」と驚かれるかもしれません。
確かに、現在の法律上ではこれらも「虐待」と定義されますし、
子供の心を傷つける不適切な言動であることに変わりはありません。
決して「問題ないもの」ということではありません。
しかし、これらは「相手が子どもであることを前提として、程度加減された範囲の暴言暴力
であり、かつ「一時的」なものという特徴を押さえる必要があります。
これらはあえて「虐待ではないもの」とし、
「普通の家庭の、普通の子育ての中で起きてしまう親の失態」
と定義することとします。
「普通の親」であっても、人間です。
聖人君子ではありません。
仕事で疲れ果て、寝不足が続き、何度言っても聞かない子供を前にすれば、
理性のタガが外れ、つい手が出てしまう、ひどい言葉を投げつけてしまうといった
失態を招くことがあります。
ただし、ここで明確に押さえておくべき「決定的な違い」があります。
それは、普通の親がこうした「失態」を犯した時、
そこには必ずセットでついてくる感情があることです。
それが「罪悪感」と「反省」です。
「あんなに強く叩く必要はなかった」
「あんな酷いことを言ってしまった」
「私はなんてダメな親なんだろう」
カッとなった熱が冷めた後、
あるいは子供の寝顔を見た時、
普通の親は激しい自己嫌悪に襲われます。
胸が痛み、居ても立ってもいられなくなります。
そして、子供に「ごめんね」と謝ったり、優しく抱きしめたり、
翌朝に好きな料理を作ったりして、なんとか関係を修復しようとします。
つまり、普通の親の「失態」とは、「一時的な暴走」であり、
その後には必ず「ブレーキ(自責)」と「修復(ケア)」が働くのです。
では、振り返ってみてください。
あなたが受けた仕打ちはどうでしたか?
そこに「一時的な」という言葉は当てはまりますか?
そして何より、親からの「心からの謝罪」や「苦悩する姿」を
見たことはありますか?
もし、答えがNOであるならば。
あなたが体験したのは「失態」ではありません。
それは、ブレーキのない車による暴走、すなわち「真の虐待」です。
第2章:「真の虐待」
「真の虐待」は、先ほど挙げたような「ついカッとなって」というレベルとは、
明らかに一線を画しています。
その内容は、継続的であり、執拗であり、そして何より「異常」です。

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