母は悲劇のヒロイン-裕子さんの場合-

都内在住の裕子さん(38歳)には、離れて暮らす母(65歳)と父(71歳)、一人暮らしで4歳離れた弟の哲也さん(34歳)という家族がいる。

裕子さんは24歳で一度結婚したが、8年前に離婚しており、今は一人で暮らしている。子供がほしい夫とは裏腹に、子供を持つことにどうしても抵抗があった。

裕子さんと夫の間にできた溝は深まるばかりで、埋まらなかった。

周囲から「子供は本当に可愛いよ。子供たちが大笑いしているとこちらも釣られて笑っちまう。裕ちゃんも絶対作った方がいいよ。」そんなことを言われていたが、理解できず、嫌悪感すらあった。

なぜここまで子供を嫌煙してしまうのだろうか、と自分でも訝しい。ただ、ふと脳裏によぎるのは「大笑いした子供時代」とはかけ離れていた自分の子供時代だった。

裕子さんの母はいつも悲劇のヒロインだった。

「ご近所の奥さんは、週に5回も外食に行っているのに、私はいつもいつも炊飯に洗濯。家政婦のようだよ」と毎晩似たような文句を言いながら、レパートリーの少なく塩気の強い料理を作る母。

そんなに怖い顔して作るんなら、作ってくれなくていい…そう思う日々だった。

欲しい物なんて買ってもらった記憶なんてないけれど、学校で必要な用具を父に買ってもらったときは「あんたは何でも買ってもらえていいわね~。そんな上等な物買っても、あんたが持っていたら何の意味もない。そのお金でたまにはお母さんを労わってくれればいいのに…」そう言いながら母は何かにつけて記念やお祝いのプレゼントを父に買ってもらっていた。

でもこれくらいのことは日常茶飯事だったし、ましな方だった。

小学校5年生の頃、父からもらっていたお小遣いをコツコツと貯めて、クラスで流行っていたシャーペンを買った。皆と流行のものを共有できたのが初めてだったので、とても嬉しかった。

翌週にはシャーペンを買ったことを知られ、自分に知らせずに買ったことに激怒し、中身を折られた。「親に隠し事をしたお前のせいだ」と言われ、「お金があっていいわね~。」と、お小遣いを減らされた。

裕子さんが中学生作文コンクールで入賞した際、これなら褒めてくれるかもしれないと胸をドキドキさせながら帰ってきたが、作文を破り捨てられた。

「これくらいのことでいい気になるんじゃないよ。みっともない!こんなつまらない日記が何だというの。」

大声で怒鳴られて咄嗟に流れた裕子さんの涙を見て更に逆上した。記憶が曖昧でそのあと何を言われていたかあまり覚えていない。

「あんたが生まれてからお母さんがどれだけ大変だったかも知らないで。本当に恥ずかしい娘だわ。」

そんな母を見て弟が「お母さん‥」と言った。母は非難されたと思い込み「あんたたち、全く育て甲斐のない子ね!!」と泣き喚いていた。

母は親戚付き合いでも敬遠されていた。親戚のちょっとした集いで毎度空気の読めない発言をしては、親戚に嫌われ、悪びれもしない。叔父さんから「えっちゃん、今の言い方はきついんじゃないか。」と諭されると「何よ。冗談が通じないのね。」とふてくされ、帰宅すると「私は悪くない。いつも寄ってたかって私をいじめる。」と延々と親戚の悪口を言い聞かされた。

中学卒業後、家を出て関東の高校に通った。もちろん当初は大反対でヒステリックに暴れた母だったが、母の選んだ高校で、絶対に仕送りしない・学費も払わないという条件でどうにかこぎ着けた。普段は影の薄い父だったが、引っ越しや事務手続きなど、父がやってくれた。住み込みの新聞配達のアルバイトとコンビニのアルバイトで学費と生活費をまかなった。弟より自分に風当たりの強い母だったが、自分が居なくなった後の弟だけが心配だった。それでも、どうしても家を出たかった。4年後、弟も中学卒業早々に、家を出たと聞いた。

バイトと学業掛け持ちの一人暮らしは想像以上に大変で、毎日へとへとだったが、それでも毎日母の恨みつらみ、ご近所の悪口、何よりいつも突然で延々と続く罵倒や号泣に耐えるよりも、ずっとましだった。

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