虐待には、ある意味で2種類の虐待があります。
①子の痛みに共感しつつも行われてしまう虐待と、
②子の痛みに共感しないで行われてしまう虐待
です。
この世に起きている虐待で、どちらの虐待多いと思いますか?
それは圧倒的に「②子の痛みが共感されずに行われてしまう虐待」の方です。
今回の記事では②の虐待について深堀していくことにしましょう。
②の感覚は、普通の人の感覚からすると驚くべきことであり、信じがたいことだと思いますので
まずは別の例を持ってきましょう。
子供の頃、アリや蝶々などを(意図してか意図せずかはさておき)足を引っこ抜いてしまったりなどしていじめてしまうことは珍しくありません。我が子が虫を虐めていても、「可哀想だからやめなさい」くらいは言ったとしても、全力で制止まではしないことも多いでしょう。
一方で猫や犬だと、どうでしょう。猫を蹴とばしたり、犬のしっぽを引っこ抜こうとして虐める子供は、虫の時と比べてずっと少なくなりますし、もし我が子がそんなことをしていたら親は全力で止めて叱るはずです。
動物をいじめることは可哀そうでできなかったり、見ていられないのに対し
虫をいじめてもさほど心が痛まず、ついまた同じようなことを繰り返してしまうのはなぜでしょう。
それは人は普通、虫の痛みに共感できないからです。共感というのは、相手の気持ちと自分の気持ちがリンクすることです。
同じ生き物として、足を引っこ抜けば虫にとって痛いということは理解はできます。しかし虫の痛みを、自分の痛みのように捉え、自分の心が打ちひしがれることはまずありません。
虫を決して虐めない為には、「虫も生きているのだから、虐めてはいけない」という教えだけでは不十分で、虫の痛みが心にぐさりと刺さる必要があるのです。
さて、話を「②子の痛みが共感されずに行われてしまう虐待」にもどします。
とある事情から、人が虫の痛みに共感できないのと同じように、我が子の痛みに共感できない親がいます。怒りやイライラから、ちょっとした理由や粗を捜して、子供を蹴とばします。子供が悲痛な声を出しても、その親の心は全く痛みません。「子供を蹴とばすことは私自身が辛い」というストッパーを持っていない親にとって、子を蹴とばすことは痛くも痒くもない、どうってことのない行為。親の心に残らない行為となります。そしてイライラすれば、再び躊躇なく子供を蹴とばしてしまう。
子育ての日常にイライラは付きまとうもの。
つまりそれに伴い、虐待は日常的におこる、ということになります。
繰り返します。この世界で起きている虐待は
①子の痛みに共感しつつも行われてしまう虐待と、
②子の痛みに共感しないで行われてしまう虐待
の2種類があり、②の虐待を行う親がいます。①のように親の心も傷ついている虐待と異なり、その数は①の親よりもはるかに多いのだという事を知って頂きたいのです。
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