死にたいではなく、消えたい。

※ この記事を読む前に、【必読】このサイトを読む前に知ってほしいこと を必ずお読みください。

夜が終わらない 朝が始まらない

ぐっすり眠るという事が分からない

私には過去がない

自分がどんな人間なのかわからない

自分には安心が何なのか分からない

必死に普通の人のふりをしているが、人が怖い

本当の自分が何なのか分からない

これは、被虐待の中で育った人たちの内側の声です。

目次

「死にたい」と「消えたい」は違う

被虐待の中で育った人たちの多くが、「消えたい」という感覚を知っています。それは「死にたい」とは違います。

「死にたい」という言葉の裏には、辛い現実から逃れたいという切実な願いがあります。今の苦しみを終わらせたい。そこには、苦しみを感じている「自分」がいます。

けれど「消えたい」は違うのです。「消えたい」の中には、「自分」がいません。消えたいのは、苦しみではなく、自分の存在そのものです。「最初からいなかったことにしたい」という、もっと根源的な願いです。

「自分」が最初からつくられなかった

なぜ「消えたい」と感じるのか。それは、彼らの中に「自分」がつくられなかったからです。

健全な育ちの中で、子どもは親から「安心」をもらい、「自我」を獲得し、「境界線」を引いてもらうことで、少しずつ「自分」というものを形作っていきます。しかし被虐待の中で育った人たちは、そのどれももらえませんでした。

気持ちを読み取ってもらえず、受け止めてもらえず、「いや」と言うことも許されず、自分と親の境界も引いてもらえなかった。その結果、彼らの中には「自分」というものが形作られなかったのです。

「自分」がないというのは、想像を絶する苦しみです。自分が何を感じているのかわからない。自分が何を望んでいるのかわからない。自分がどんな人間なのかわからない。そこには「空っぽ」しかないのです。

「消えたい」の正体

だから「消えたい」のです。「自分」がない人にとって、存在することそのものが苦しみです。何かが辛いから死にたいのではなく、「ここにいること」自体が耐えがたい。自分という存在の輪郭がないから、生きているという実感もない。ただ漠然とした苦痛だけが、体の中にある。

彼らは、その苦痛の正体すらわからないことが多いのです。「なぜこんなに苦しいのか」「なぜ人と同じようにできないのか」。その答えが見つからないまま、ただ毎日を「普通のふり」をして生き延びています。

この感覚を抱えながら生きるということ

「消えたい」という感覚を抱えながら、それでも毎日を生きている人たちがいます。彼らは「普通」の人が当たり前にできることに、膨大なエネルギーを使っています。人と話すこと、笑うこと、朝起きて会社に行くこと。そのすべてが、彼らにとっては命がけの行為です。

そのことを、知ってほしいのです。

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