生き延びる苦しみ

この記事では「死」や「自殺」について取り扱う内容になります。予めご了承ください。

児童虐待の結末は、ある意味で二つあります。

殺されてしまうか、生き延びてしまうか、です。

「生き延びてしまう」という書き方に違和感を持つ方は当然いらっしゃるでしょう。

両者のどちらが良いか?と問われれば、普通に育った人たちからすれば、火を見るよりも明らかです。

「親に殺される苦しみより酷いものなんてない。生きてさえいれば、どうにかなる。」

一般的に言えば紛れもなくその通りです。

虐待死事件を聞くたびに、どれだけ痛かったか、怖かったか、助けてほしかったか、と私たち大人の無力さを痛感します。親に殺されてしまう子どもなんて、一人いても多いくらいです。

しかし今回は、あえて異なる視点で考えてみたいと思うのです。

それは、殺されずに生き延びてしまう苦しみについてです。

筆者は児童虐待について知るほどに、この両者は比較できるものではない、「生き延びた方がマシ」だと即答できるものではないのだ、と思うようになりました。

保護されて、親心を持った人と特別養子縁組を組めるのなら話は別ですが、日本でそれが叶うのは、虐待を受ける子どもの1%にも満たないため、ここでは適切な環境で保護されない事を前提として考えます。

ニュースやドラマ映画から連想される虐待イメージと

現実で起きている虐待の実態は、あまりにも乖離があります。

現実の虐待は、想像を絶するほどに気持ちが通じず、哀れみがなく、ためらいがありません。凍てつくような空気が24時間、365日流れていて、気が休まるということがありません。

そんな家に産まれてからずっと居続けるということは、文字通りの生き地獄だと想像できます。

そして「死んでしまいそうなくらいの致命的な身体的虐待」を一度受けることよりも

「ただそこに居るだけで、毎日、存在を拒絶される」ことの方がよほど心や脳は致命的な傷を負うというのです。

身体的な致命傷だけは負うことなく「幸いにも生き残ったこどもたち」は

殺されていないだけであって、生きた心地や「生きたい」という気持ちを持たずに

ひたすらに心を麻痺させて日々を耐えている状況だと想像します。

実際、被虐者は、幼児の頃には既に希死念慮をもっていることが珍しくないそうです。これは、普通に育った人からすれば信じられないことです。

自分としても、もしも虐待親のもとに産まれてしまったのなら

「これ以上生きるのは耐えられない、命を終わらせたい」と思っていても不思議ではありません。

死ぬために痛い思いは、やはりしたくないけれど、一度だけ痛みに我慢して、この無限の苦しみを終わりにできるのなら、死は絶望ではないと思うでしょう。(自分に関してさらに正直に言えば、もしも本当に自分が当事者だったなら、おそらく中絶か産後すぐに殺してほしかったと願ったでしょう。)

「死にたい」と口にする人がいれば、止めて説得しようとするのが人情ですし、普通はそうするだろうと思います。

しかし、「死にたい。」という言葉や気持ちを、全否定したり、はぐらかしたり、「命が一番大切」という綺麗事を、生き地獄を生きる人に投げつけるのは、むしろ絶望の淵へと追い詰めます。

被虐者にとって、「死」は生きている時は決して許されなかった唯一の「逃げ場」であり「切り札」です。最初で最後の逃げ場を、心の綱として握りしめておくことは、必要なことです。切り札は、切るか切らないかは別で、持っていること自体が御守りになります。

死にたいと言う人を前に、ただ黙ってその気持ちを聴くということは、現実的にはとても難しいことです。しかしながらそれは、死を願う人に対して、周りの人ができる唯一のことであり、死の防波堤にもなりえるのです。

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