死にたいではなく、消えたい

夜が終わらない 朝が始まらない

ぐっすり眠るという事が分からない

私には過去がない

自分がどんな人間なのかわからない

自分には安心が何なのか分からない

必死に普通の人のふりをしているが、人が怖い

本当は逃げ出してしまいたい

死にたい、というより、消えたい

もう終わりにしてしまいたい

子供の頃に虐待を受けながら生きてきた人たち ー被虐者ー がいます。上の言葉は全て被虐者が語ることのある言葉です。

普通の人にとって「自分が今という時間、この世界で生きている」という感覚は、意識さえすることのない当たり前の感覚です。この「生きている」という感覚は、何によってもたらされていると思いますか?

それは「美味しい物を食べて満足」「嬉しいことがあって幸せ」「辛いことがあって悲しい」「ぐっすり眠れて気持ちいい」「仕事がたくさんあって大変」「仕事をやり終えることができて安心」「友人と愚痴り合ってスッキリ」など

「ある事象が起きる⇒それに伴う感情を感じる」を繰り返しながら、今という時間を過ごしていること。

幼児の頃から今この瞬間まで、そうやって連続的に色々な出来事と感情を自分のものとして経験し、体感してきて、「いま、自分は生きている」という至極当然の感覚が備わっていくのです。

一方、被虐者の場合、「私は、今、私を生きている」という感覚はとても希薄になることがあります。それは冒頭にも挙げた言葉たちによって代表的に語られますが、本人たちにとってその感覚を普通の人に伝えるのは至難の業でしょう。そうした感覚が植えつけられてしまった彼らの育ちは一体どのようなものだったのでしょう。

~精神科医 高橋和巳著書「消えたい」より。とある男性の幼少期の回顧~

3歳の頃、真冬の中、裸で雪のなか出され、ホースで水をかけられて逃げ回ったのが、この世に生まれて最初の記憶だった。

母親は『踊ってる!』と笑っていた。なぜそんなことをされたかの記憶はないそうだ。

虐待というものは残酷なほどに様々なものがありますが、上記の回顧のようなほんの一文を読むだけでも、普通の子育てでは起こりえない異常性を感じるのではないでしょうか。

彼らの育ちは、普通の家庭の育ちとあらゆる面で異なりました。

食事は、味わうためにするのではなく、食べないといけないから。

眠るのは、ぐっすり眠って疲れを取るためではなく、布団に入って目を閉じないといけないから。

誰かと過ごすのは、気持ちを分かち合う為ではなく、そこで「普通」や「親の面子をつぶさないように」振る舞わないといけないから。

頑張るのは、頑張った後の達成感を得るためではなく、終わることのない義務だから。

彼らは幼い頃から、与えられること、味わうこと、喜ぶこと、泣くこと、怒ること、人が生きるのに当然に伴ってくるあらゆることが許されませんでした。

かすかな期待は、ことごとく打ち破られてきました。

どんなに酷いことが起きても、救いはなく、理由もわからず、ただ過ぎ去るのを待つしかありませんでした。

常に何かに怯え、不安と緊張で身体が張りつめている。波風立たせずに、何も感じぬように、じっと我慢して時間が過ぎるのを待つように、人生の時を流してきた。「生きている」のではなく「自分にはどうすることもできない流れに逆らわないように」「ただ、たたずむ様に、飲み込まれるように」。

普通の人には、「死にたい」の裏に「生きたい」があるのに対し、彼らにはそもそもの「生きたい」が希薄なため、「消えたい」「終わりにしたい」という言葉が浮かんできます。

普通の育ちをした人が、彼らに「一度の人生、楽しもうよ」とか「前向きに考えよう」と説くのは酷なことでしょう。

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