普通の親元で育った人の感覚
「親はいつも、我が子のことを想っている」
「親子なら分かり合える。」
これは普通の親元で育った人たちの間の共通理解です。
普通育ちの人たちは時折、友人や同僚に、親のことを話します。
「うちの親は本当にお節介で」「口うるさくて」「高校の頃、こんなことがあって大喧嘩してさ・・・」
そんな愚痴をこぼしながらも、心の内には親との睦まじさが根底にあることを、話し手も受け手も感じ取っています。
普通の親子間の喧嘩は「親が子を心配している事の裏返し」「仲が良い証」のような文脈で語られることも多くあります。
虐待家庭で育った人の感覚
一方で被虐者の場合は異なります。
育った環境が真逆といってよい両者。「アットホーム」という言葉が「落ち着く、くつろげる居場所」を意味すると知っていて実際に体感してきたのは、普通の親に恵まれた人たちだけです。
親に対する印象が真逆の両者ゆえ、被虐者が自身の家庭環境を、仮にどれだけ懇切丁寧に説明したとしても、普通の人には通じません。
大やけどなど今にも傷跡が残るような酷い身体的虐待があった場合は、普通の人にも想像しやすく、この限りではないかもしれませんが、それ以外の真綿で首を絞めるような、薄皮を剝いでいくような虐待の苦しみは決して伝わることはありません。
児童虐待はニュースの世界
「児童虐待」というものが存在することを普通育ちの人も当然知っているはずですが、それはテレビニュースの世界であって、目の前にいる知り合いがその虐待の生存者だなんて思いも寄らないことなのです。
温かい家庭で育った人は、虐待で命を落とした幼い子供を想い心を痛めますが、虐待を生き延びた大人の痛みを想像することは、残念ながら前者よりも相当難しくなります。
また、被虐者の人は基本的には自身の被虐された事実を過小評価、つまり「大したことではなかった」と信じようとする傾向にあります。
そのため、他人に話すときは極めて控えめに話すことが多いことも加わり、彼らの壮絶な被虐体験が単なる「親子関係のすれ違い」程度だと誤認されます。
「もう昔のことなんだから、いい加減立ち直りなよ。」とか「生き延びられたんだから、良かったじゃない。」なんてことになってしまうのです。
理解されない苦しみ
自分の抱える痛みが人に全く伝わらない、理解されないというのは、二重の苦しみであり、大変な孤独です。
両者の間にそびえ立つ壁は、育った環境が余りにも違いすぎた故、どちらが悪いということはないです。しかし悪気はなくても、やはり酷く傷つくのは被虐者の方なので、もしも知り合いが「親子関係の悩み」を打ち明けてきたのなら、自分自身の親子関係は一旦置いて、ただ黙って聴き遂げるということが大事です。
被虐者が味わった苦しみを、我が事のように感じることはできなくても、彼らの語る言葉を遮らず、否定せず、アドバイスを押し付けたりせず、どうか「ただ、聴く」。これを知って頂けたらと思います。
被虐者の方は、そもそも他人に親のことを話すことが稀です。話す動機が見当たらず、或いは親のことを他人に話してはならないと思っているからです。
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