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子どもを叩いてしまった後、「ごめんね」と言える親と、言えない親がいる。
この違いは、単なる性格の差ではない。その裏には、親の中に「葬藤」が存在するかどうかという、決定的な差がある。
「ごめんね」が生まれる場所
育児に疑れた親が、つい子どもを叩いてしまう。その瞬間、手が出た自分に驚き、「やってしまった」という後悔が走る。泣いている子どもを抱きしめ、「ごめんね」と言う。
この「ごめんね」が出るためには、いくつかの心の働きが必要である。まず、「叩く」という行為が「いけないことだ」と判断できること。次に、子どもの痛みを想像できること。そして、その想像が自分の中に「罪悪感」という痛みを生むこと。この一連の過程が、「葬藤」である。
葬藤とは、自分の行為と自分の価値観の間で心が引き裂かれることだ。「叩きたくないのに叩いてしまった」――この苦しみが、次は叩かないためのブレーキになる。このブレーキがあるから、「普通の親」は虐待という一線を越えない。
「ごめんね」が生まれない場所
一方、子どもを叩いても「ごめんね」が出てこない親がいる。彼らは「しつけ」として子どもを叩く。そこに「やってしまった」という感覚はない。なぜなら、「叩くこと」が「いけないこと」だという判断が、そもそも働いていないからだ。
この「判断が働かない」というのは、性格の問題ではない。子どもの痛みを想像する力、自分の行為を客観的に見つめる力、そしてそこから葬藤を生む力――これらはすべて、認知機能に依存している。軽度知的障がいや境界知能の親の場合、この認知機能が最初から弱い。だから「ごめんね」に至る道筋が、成立しない。
虐待を「謝罪」できる親はいるのか
では、虐待が発覚した後、親は子どもに謝罪できるのか。
境界知能の親の場合、「可哀想なことをした」「悪いことをした」程度の反省は口にすることがある。しかしそれは、「自分が社会的にまずい立場になった」ことへの反応であり、子どもの痛みへの共感から生まれた言葉ではない。「自分も大変だった、自分も被害者」という言葉が併走するのは、そのためだ。
軽度知的障がいの親の場合は、境界知能の親よりも素直に「悪いことをした」と反省の言葉を口にすることがある。しかし、我が子の命を奪ったという致命的な過ちに対して、「普通の親」が感じるであろう、言い表せないほどの後悔や罪悪感には至らない。
「葬藤」こそが子どもを守る盾
「ごめんね」と言える親と、言えない親。この差は、「性格が悪いかどうか」ではなく、「葬藤を生む力があるかどうか」にある。
葬藤とは、自分の行為と自分の心の間で引き裂かれることだ。それは苦しい。だからこそ、その苦しみがブレーキになる。葬藤が存在する限り、親は「やってしまった」という痛みに止められ、同じ過ちを繰り返さないように踏みとどまる。
虐待とは、この葬藤が不在の場所で起きる。葬藤のない親は、叩いたことを「しつけ」と呼び、罪悪感なく繰り返す。その繰り返しの中で、子どもの心と体は、少しずつ壊されていく。



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