テレビの前で、動けなくなった日
「もうおねがい ゆるして ゆるしてください」
——五歳の女の子が、母親への最後の手紙にそう書き残して死にました。
ニュースで読み上げられたその日、私は家事の手を止めたまま、テレビの前で動けなくなりました。幼い我が子が、心配そうに足にしがみついて私の顔を見上げたとき、自分が泣いていることに気付きました。
その日からずっと、消えてくれない問いが心にズシンと居座るようになりました。
——なぜ、親が我が子を殺してしまうのか。配偶者が我が子を殺してしまうのを、なぜ止められないのか。
ノートが、線を越えてきた
事件、というものに、私は、たぶん慣れすぎていました。
ニュースで「殺人」「死亡」「自殺」、時には「餓死」などという言葉が読み上げられても、心が少し重くなって、自然と手元のリモコンに伸びる。それが、私自身の日常でもありました。あまりに自分の暮らしからかけ離れていて、想像することすら、なかなかうまくいきません。
ジャンルはまったく異なりますが、例えとして陣痛と出産が思いつきました。「出産は鼻からスイカが出るくらい痛い」という比喩を耳にしても、経験のなかった頃は、単語として頭をすり抜けるだけで、「ものすごく、痛いんだろうな」程度の手前で止まっていました。実際に経験してみると、言葉では到底収まらない、想像を遥かに超える痛みと恐怖がありました。
人が本当に苦しんでいるその内側は、自分で経験するか、その現場を目撃するかしないかぎり、「殺害」「死亡」といった単語だけでは、どうしても他人事のまま、流れていってしまいます。
——けれど、あの女の子の事件は、これまで耳にしてきたどの虐待事件とも、異なる点がありました。
女の子のノートが、残っていたからです。
そこに書きつけられていた言葉は、あまりに具体的で、あまりに幼くて、あまりに切実で——画面のこちら側にいただけのはずの私の中に、はじめて「当事者の苦しみ」のかけらが、滑り込んできたまま、心の中から消えなくなりました。
事件として消費して、明日には忘れる——その線を、あの手紙が、越えてきたのです。
治療室で、ふと浮かんだ顔
女の子が亡くなって、まだ数週間しか経っていない頃のことです。私は治療のため歯科医院の治療室にいました。リクライニングチェアに体を預け、麻酔が効くのを待つ時間。天井のライトの強さ、薬品の匂い、奥の機械音——次に来る痛みに身構えていた、ただそれだけの時間でした。
突然、あの子の顔が浮かびました。ニュースで何度も見た、もう亡くなった女の子の顔です。
そして、私は思ったのです。
——大人の自分が、たかが歯の治療でこれだけ手に汗を握っているのに。あの子は、毎日、家の中で、あの拳が振り下ろされる瞬間を、繰り返し、繰り返し、恐怖の中で身構えていたのか、と。
治療が終わって、駐車場に戻って、ドアを閉めて、しばらく車を発進させられませんでした。
それから何度も、関係のない場所で、あの子は不意に戻ってくるようになりました。スーパーのレジ、信号待ち、保育園の送り迎え、夜中に水を飲みに台所へ立ったとき。忘れたいわけではありません。けれど、忘れさせてくれない。
この感覚を、自分の中でどう扱えばいいのか分からない——その答えを探すこと自体が、最初の原動力になっていったのかもしれません。
自分の手で
それから、少しして二人目の子が生まれた頃のことです。夜のお風呂でのことでした。私は赤ちゃんだった下の子の体を、両腕で抱きながら洗っていました。そのすぐ脇に、その日たまたま、冷水を張ったバケツが置いてありました。
私が一瞬、シャンプーのボトルへ手を伸ばした、そのときでした。腕の中の小さな体が、つるりと滑り落ちて、そのまま、冷水のバケツの中に沈みました。
——時間が止まる、というのは、こういうことを言うのだと思いました。
子どもの目が、ぱっと見開かれて、息を呑む音が聞こえました。私はほとんど反射で抱き上げて、お湯のシャワーで体を温めて、「ごめんね、ごめんね」と何度も繰り返しました。子どもは、今までにないような悲鳴のような声で叫ぶように泣きました。
その夜、子どもたちが眠ったあと、私は布団の中で、動けませんでした。
たった数秒のことでした。叩いていない。怒鳴っていない。だけど完全に私の不注意で、冷水に落としてしまった。これは事故だと、頭では分かっている。それでも、この子の小さな身体に、いま、冷水の感覚が刻まれてしまったのではないか——その思いから、しばらく逃れられませんでした。
しかし同時にふとこんなことを思いました。——世の中には、子供に冷水を、あるいは熱湯を浴びせるようなことを「しつけ」と呼んで、毎日のように繰り返す家がある。
同じ行為が、ある家では一晩中眠れなくなるほどの事故で、ある家では翌朝も同じことが起きる日常になる。この距離は、いったい、何でできているのでしょう。その問いが、私の中に、長く残ることになりました。
「ただ運が悪かった」?
私が人生のなかで「言葉では到底収まらない痛み」を経験したのは、出産のときだけです。比べていいものではないのは承知のうえで、それでも、出産の最中に襲ってきた痛みと恐怖は、私の身体の内側でしか分からないものでした。世の中には、こういう尋常ではない痛みが現に存在するのだと、はじめて知った時間でした。
——その尋常ではないものを、毎日、可愛い可愛い可愛いはずの子どもたちに浴びせている家がある。
事件のあとで耳にした「あの子は世の中を変えるために遣わされた天使だった」という慰めの言葉も、到底納得できませんでした。むしろ、神様などいないのではないか、という方の絶望が深くなっていきました。
「人生に外れくじはあるのですか」——あの事件のあと、私の中で何度も繰り返した問いです。私が当たり前のように過ごしてきた、青春の時間、働いた時間、子を産み、育ててきた時間——それと、今この瞬間に、誰にも気づかれない部屋で地獄を耐えている子の時間。あるいは死なずに、それゆえ「事件」にもならずに、何年も、何十年も前から、地獄の中から抜け出せずにいる方の途方もない時間。
その差を、「ただ運が悪かった」「次の人生では幸せな親のもとに」という言葉で繰り上げて済ませることが、私には、もう、できなくなっていました。
子どもは、自分から助けを求めません。家の中に閉じ込められていれば、誰の目にも触れません。——どこを、どう探せば、その子に辿り着けるのか。自分のあまりの無力さに、しばらく答えが返ってきませんでした。
動かないではいられなかった
それまで私は、虐待という言葉を、たぶん、分厚いモザイクがかかった言葉のまま、外側から眺めていました。
ニュースを見て、胸が痛んで、「可哀想に」とつぶやいて、明日にはもう日常に戻っている。気づかないうちに、それで一回ぶんを済ませている。考えてみれば、それは、先送りと、他人任せの、ど真ん中にいるような態度でした。
あの女の子のノートは、その態度のまま立っていることを、許してくれませんでした。
私は、たまたま、親や周りの人の愛情のもとで育つことができました。たまたま、無事に大人にまで成長することができました。そして、いまは、子どもを守る側の大人として、動ける場所にいます。——だとしたら、自分にできるささやかなことから、やってみたい。どれだけ効果があるかは分からなくても、何もしないよりは、わずかでも何かが動くはずだ、と。
最初に動いたのは、選挙区の議員に、メールを一通送ることでした。「数日前まで、自分がそんなことをするとは思っていなかった」——書いている自分を、不思議そうに眺めている自分もいました。
虐待のような問題は、世論が動いて、ようやく政治が動く。女の子の事件をきっかけに、著名人による署名活動が起き、国会が動き、法律も変わりました。それでも、調べれば調べるほど、文章を書くだけ、メールを送るだけでは追いつかない場所が、自分の中で少しずつせり上がってきました。
——「窓ガラスを破って助けに行くことよりも、難しいことか?」
もしタイムマシンがあったのなら、女の子が生きている日に戻れるのなら。まずバットを買い、タクシーであのアパートへ向かい、虐待親の外出を確認した上で、窓ガラスを破ったのだと思います。それくらいのことなら、できたかもしれない。けれど、その時間は、戻ってきません。
以前の私なら、「有給を取って区議会の傍聴に行く」「請願書を書く」なんてことに「それ、やる意味あるの?」と思っていたはずです。
けれど、女の子が「明日は絶対にやる、やるぞ」と書き残してくれたから、私は動くことができます。窓ガラスを破ることはできなかったけれど、それより簡単なことであれば、迷わずやろうと決めました。「今日よりか、明日はもっと」何かできている自分でありたい——その一行を、自分のなかに置いています。
児童虐待を根絶するためには、国が動き切るまで、世論が関心を持ち続けることが不可欠です。政治家の原動力が「票」である以上、私たちが関心を寄せ続けることが、いちばんのレバーになります。
「なぜ」が、ようやくクリアに見えた
あの問いの答えに簡単にはたどり着けないことは、最初から分かっていました。
「なぜ、親が我が子を虐待してしまうのか」。
加害者の生育歴、専門家のコメント、識者の論考、判決文の引用——目に入るたび、片端から読みました。もっともらしい答えは、いくつでも並んでいます。貧困、ストレス、夫婦間の不和、世代連鎖、孤立、依存症、産後うつ。どれも、一面では正しい。けれど、どれかひとつをもってしても、私が頭の中で並べていた事例たちの根底にある何かを説明するものはありませんでした。
「結局、人間は分からない、ということだろう」——その地点に着地して閉じる、を何度も繰り返しました。

しかし転機は、二つ、重なってやってきました。
ひとつめは、ある専門講習との出会いでした。虐待臨床に特化した、体系的なカリキュラムで、虐待が「なぜ・どう起きるのか」を、当事者の側から読み解くために編まれた、ひとつの臨床の枠組みです。私は仕事を続けながら、休日を使って2年間、そこに通い続けました。
ふたつめは、それから少しして、私が会社を離れたことでした。
どこにでもある家庭で育ち、新卒で入った会社で働いて、結婚し、子どもが生まれ、また仕事に戻って——「どこにでもいる会社員」だった私が、児童福祉の領域に身を移すなど、それまで一度として考えたことのない選択肢でした。
決意した、というより、決意せずにはいられなくなった、と書いた方が正確です。「いつか分かるようになるまで」と、安全な場所で本だけ読み続けることが、私には、もう、長くは耐えられませんでした。
児童福祉の現場に身を置いてから、当事者との対話、関係者からの話、彼らの観察を通じて、それまでとは比較にならない密度で「現実」に触れる時間ができました。
——そして、ある時。専門講習で得てきた「分類の枠組み」と、現場で触れた「無数の生の事例」が、頭の中で噛み合いました。
それまで私の中でひと塊に、ぐちゃぐちゃに混ざっていたものが、その瞬間、くっきりと分岐して、まったく別物として立ち上がってきたのです。
「虐待」と呼ばれているものは、ひとつの現象ではありません。——親の特性によって、原因も、起きていることも、子どもの側で何が壊れていくかも、まわりが何をすれば動くのかも、根本から違う何種類もの現象が、同じ一語の下にごちゃまぜに押し込まれていたのでした。
たとえば、正常知能で被虐歴のある親、軽度知的障害・境界知能の親、統合失調症の親、正常知能を持っているのに、あることが原因で心理発達が途中で止まってしまった親——この四つだけでも、起きていることは、重なりません。動機も、子どもへの関わり方の歪み方も、必要な手当ても、別物です。
この区別が手に入った瞬間、それまで「分からない」で閉じてきた事例が、ゆっくりとほどけ始めました。
そして、思ったのです。この見え方を、必要としている人が世界にはたくさんいるのではないか。自分の家庭の中で「何が起きているのか分からない」と立ち尽くしている人たちなのではないか、と。これは、専門家の中だけにとどめておくべき「タブー」にしてはいけない、と。
このサイト「こころノート」は、そのために作りました。
子どもへの投資が、いちばんの近道だと思う
虐待のニュースを見るとき、同時にこんなことを思います。ひとりの子どもが亡くなるということは——大人を元気にしてくれる元気の源が、一人。将来この社会に発展や発明をもたらしてくれたかもしれない、ダイヤモンドの原石が、一人。そのそれぞれが、失われている、ということです。
それなのに日本では、事件や事故が起きるたびに、対応は応急措置に偏り、場当たりに終わります。貧困の格差にも、出生率の低下にも、対応はずっと、後手に回り続けてきたように見えます。選挙権を持たない子どもに対しては、いつだって「最低限」——問題が起きたら、「やり過ごすための必要最低限の措置」だけ。
本当は、逆にすべきではないか、と私は思っています。
幸せな子どもを増やすこと——もっと言えば、幸せな子ども時代を過ごした大人を増やすことが、経済的にも、社会的にも、この国そのものを豊かにする筋道だと、本気で考えています。
想像してみます。虐待親から親権を速やかに回収し、血のつながりがあるかどうかを問わず、すべての子どもが「愛のある家庭」から巣立つことができたら。そして「生きるための知恵」を、義務教育のなかで一通り学べたら——
- 性の知識(避妊、予防接種、妊娠リスク、特別養子縁組、里親制度)
- お金の知識(資産運用、お金の常識)
- IT教育(人間の労働力の代替となるロボット・AIを発展させる人材育成)
- 対人教育(合理的な自己主張、ディスカッション、自己と他者の尊重)
質の高い愛と教育が、すべての子どもに保証された社会であれば。
自分の存在価値を感じられずに死を選ぶ子が、減っていく。いじめが、減っていく。不登校児が、減っていく。十分な愛のなかで自信が育ち、得意分野で能力を発揮できる大人になる。安定した仕事と資産形成の知識で、貧困に陥らない。対人スキルがあるぶん、仕事や家庭でのトラブルが減り——虐待に陥らない親になれる。そして、自分が与えられた愛と知恵を、自分の子どもにそのまま渡せる。子どもへの投資の、正の連鎖が始まる。
——理想的すぎて、実現できないでしょうか。私は、そうは思いたくありません。子どもへの投資には、それだけの効果が眠っているはずです。この国が、児童福祉大国になる日を見届けることが今の私の夢であり原動力になっていると思います。
「こころノート」で、書こうとしていること
こころノートで書こうとしていることは、三つあります。
一つめ。臨床の枠組みを、現場の言葉に翻訳すること。
虐待臨床の世界には、何十年もかけて積み上げられてきた整理の体系があります。けれど、それは支援職向けの教科書の中にしまわれていて、当事者や、すぐ隣で困っている家族の手元には、ほとんど届いていません。私は、その枠組みを、できるだけ平易な日本語に訳し直して書きます。専門用語のシャワーで読者を萎縮させない。代わりに、「いま、あなたの目の前で起きていることは、この地図のここに位置していますよ」と、座標を一点ずつ打つように書きます。

二つめ。支援現場で出会った事例から、当事者の心理がどう動くかを記録すること。
教科書の事例は、整いすぎていて、現場のざらつきが落ちています。けれど、支援現場で出会う家族のあいだには、本にも論文にも入りきらない個別の揺らぎが、毎日のように生まれています。このサイトでは、それらを記事のなかに地に足のついた肉付けとして置いていきます。
ただし、個人が特定される形では、決して書きません。本質(その家庭で何が起きていたか、その心理がどう動いたか)は変えないまま、場面設定・登場人物の属性・発言の言い回しを意図的にずらし、複数の事例のエッセンスを織り混ぜて再構成しています。「誰の話か」は辿れない形にし、「何が起きているのか」だけを届くようにする——それが、このサイトでの素材の扱い方です。

三つめ。制度・経済・社会設計の視点から、「次にどこを変えれば効くか」を考えること。
児童虐待による日本の社会的損失は、年間1兆6千億円規模と試算されています。これは、かわいそうの話ではありません。経済の話であり、社会設計の話です。フィンランドのネウボラ制度、特別養子縁組の運用、児童相談所の体制、里親委託率の国際差——これらを「重い問題ですね」で終わらせず、どのレバーを引けば、どれだけ動くのかを、数字と制度の文法で書きます。
誰のために書いているか
こころノートでは、次のような立ち位置の方に届くことを念頭に書いています。
- 児童虐待・心の繋がりの問題・知的障害をめぐる出来事を、事件のセンセーションでも感情論でもなく、構造として理解したい方
- 支援職・対人援助職で、専門書と現場のあいだを埋める言葉を探している方
- 自分の家族・実家・パートナーの家族の中で、長く「何かおかしい」と感じてきたけれど、それをどう名づければいいか分からないままここまで来てしまった方
- 報道で「あの事件」を目にするたび、何かしたいけれど何ができるか分からないまま日々が過ぎていく、と感じている方
どの立ち位置の方にも、共通してお渡ししたいのは——「感情の手前で、まず一度、構造を見ること」の手がかりです。それさえあれば、次に何を考え、何を選び、誰に問えばいいかを、自分の手で組み立て直す道筋が見えてきます。
私の立場と、これまで歩いてきた場所
このサイトを書いている私は、医師でも、公認心理師でもありません。また、虐待の被害を生き延びてきた当事者でもありません。
私の立場は、支援者と編纂者——というふたつの間に立つ位置です。
- 支援歴 6年(NPO法人にて、カウンセラー/支援同行)
- 虐待臨床に特化した専門研修 修了
- 子ども家庭支援員研修 修了
- CAP(Child Assault Prevention)ワークショップ 修了
- 支援現場での弁護士・医師との継続的な連携
このサイトの記事は、これらを下敷きに、虐待臨床の体系、DSM-5、判例・公的統計を突き合わせながら書いています。ただし、私はあくまで通訳と編纂者であって、診断する人ではありません。個別の心理相談、医療的な判断、診断にあたる行為は行いません。書く役目は、ばらばらの場所に置かれてきた言葉を、それを必要としている方の手元まで運ぶこと——そこまでです。
ここまで読んでくださった方が、まず最初に手にとる一本を選ぶとしたら——以下をおすすめします。

