虐待を受けた人が感情を抑圧する理由|「何も感じない」は生存戦略だった。

本ブログに足を止めてくださり、有難うございます。この記事は虐待サバイバーの方に向けた内容です。読むことで辛くなる可能性がありますので、ご自身の状態に合わせてお読みください。初めての方は、事前に下記の記事をご覧ください。

虐待を受けて育った人の多くには、ある共通した特徴があります。それは、「感じないように」生きていることです。

喜怒哀楽の表現が著しく乏しかったり、表面上は感情を表現しているように見えても、実際にはそう振る舞っているだけで本心では何も感じていなかったり。不平不満も言わず、どこか淡々としていて、ロボットのように見えることもあります。

なぜ彼らは感情を抑え込んで生きなければならなかったのでしょうか。この記事では、その理由を三つの視点から解説します。

目次

理由① 感情や感覚を親に育ててもらえなかった

人間の赤ちゃんは、親に「感情や感覚にはそれぞれ名前があること」を教えてもらいます。

身体が冷えている――「寒いね」。口寂しくてお腹が鳴る――「お腹空いたね」。おむつが汚れて気持ちが悪い――「気持ち悪いね」。大きな音がして心臓がバクバクした――「びっくりしたね」。

まだ自分では言い表せない感覚に、お母さんが名前を付けてくれる。これが「感情の共感」であり、子どもの感情が育つ土台です。

こうして感情を名づけてもらった子は、やがて「お母さん、今日は寒いね。セーターを出しておいて」と自分の感覚を言葉にできるようになります。「嬉しい」「悲しい」「悔しい」といった複雑な感情も、基礎的な感覚が育っている上に積み上がっていくのです。

虐待家庭で育つと

しかし、虐待環境で育った子どもには、この土台がありません。親からの共感がなければ、自分の感じている感覚が「寒い」なのか「痛い」なのか、それとも我慢すべき程度のものなのかさえ分からないまま育ちます。感情を把握することも、受け入れることもできません。結果として、感情は育たないまま抑圧されていきます。

理由② 感情を表に出すと攻撃される環境だった

感情が育たなかった、というのは受動的な理由です。しかし、被虐者が感情を抑圧するもう一つの理由は、もっと切迫したものです。それは、感情を出すこと自体が危険だったという体験の積み重ねです。

ポジティブな感情を持つと

まず、ポジティブな感情について。「楽しみ」や「期待」を抱くと、虐待親はそれを見逃しません。

たとえば、母の日のために、お小遣いを工夫して用意したハンカチを差し出した瞬間、冷笑と一緒に床に放り投げられる。「こんなくだらないものをよこしたくらいで、私が喜ぶと思ったのか」。

たとえば、家族が外食をするとき。「お前も連れて行ってもらえると思っているのか」。

子どもが何かを楽しみにしていると察知すると、わざとそれを奪い取ります。期待しては裏切られ、絶望する。この体験が幾度となく繰り返されることで、子どもは「期待すること」自体を危険な感情として学習します。未来に希望を抱かず、常に最悪のシナリオを想定しておく。そうすれば、裏切られたときのダメージを最小限にできる——これが彼らの生存戦略です。

ネガティブな感情を見せると

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • いきなり登場してきた「没感」という用語に戸惑う。
    「感情がないことではなく、
    感情を沈めて生き延びるための防衛的適応」
    との理解でよいのか?

    • コメント、ありがとうございます。
      ご理解いただいたとおりです。記事中の「没感」は、「感情がない状態」ではなく、感情を沈めて生き延びるための防衛的な適応——という意味で使っていました。定義を本文に置かないまま突然登場させてしまっていたので、記事側も修正しました。ご指摘がなければ、その不親切さに気づけないままでした。

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