児童相談所を、誰がチェックするのか

児童相談所は、虐待から子どもを守る、最後の砦だと思われている。強い権限を与えられているのも、子どもを救うためだ——多くの人は、そう考えている。

たしかに、児相の権限は強い。親が「渡さない」と言っても、危険だと判断すれば、その子を家から引き離せる。逆に、引き離さず、家に帰すこともできる。引き離すか、帰すか——その分かれ道は、ほとんど、児相の判断ひとつにかかっている。

では、その判断が間違っていたら、誰が正すのか。児相を、いったい誰が見張っているのか。

何度も児童相談所に通ったという当事者は少なくない。子どものころ、親からナイフを突きつけられ、何日も食事を抜かれ、そのたびに助けを求めて児相へ行った。だが結果は、いつも同じだった。数日で、家に帰される。児相の中にいるのは、児相の職員だけ。弁護士を呼ぶこともできない。その強い権限を外から監査したり、指導したりできる機関もない。だから、同じことが何度でもくり返されてしまう。

強い権限に、それを見張る目はあるのか。この記事は、その一点を追いかける。

目次

家族の運命を、左右する力

まず、児相の権限がどれほど強いかを見ておきたい。

子どもを家から引き離す「一時保護」は、その日のうちにでも始められる。だが、児相の力は、それだけにとどまらない。

引き離したあとも、親と子が会うこと、手紙や電話をやりとりすることを、児相は親の同意なしに止められる。これも、行政の判断だけで完結する。

さらに、施設や里親のもとで子どもを長く育て続ける場合はどうか。親が反対していれば、家庭裁判所の承認が必要になる。ここには裁判所という歯止めが入る。ところが、親のほうが「施設に預けてかまわない」と同意していると、その承認は要らない。裁判所は関与せず、期間の上限もなく、児相の判断だけで預け続けられる。親が争わないかぎり、司法のチェックは、そもそも出番がないのだ。

つまり児相は、家族を引き離し、引き離したままにできる、きわめて重い力を持っている。子どもを救うためには、必要な力だ。

けれど、この力は、二つの方向に間違えうる。使うべきでないときに使えば、離す必要のなかった親子を引き裂いてしまう。逆に、使うべきときにためらえば、危険な家に子どもを取り残し、その命を落とさせてしまう。児相をめぐって繰り返される悲劇は、いつも、この両側から起きている。踏み込みすぎた失敗と、踏み込めなかった失敗と。どちらも、同じ一つの権限が、正しく使われなかった結果だ。

これほど強い力には、本来、それに見合うだけの慎重なチェックが要る。ブレーキのない車が速いほど危ないのと、同じことだ。

そのブレーキを、日本はどこまで備えているのか。権力へのチェックは、ふつう三つの段階で働く。決める前(入口)、動かしている間(運用)、間違えたとき(出口)。この三つを、順に見ていく。

入口のチェック——決める前に、誰かが見るか

一つ目は、入口のチェックだ。子どもを引き離すという重い決定を下す前に、児相の外の誰かが、その妥当性を確かめる仕組みがあるか。

日本では長らく、保護するかどうかは、児相の判断だけで決まってきた。ここに、2025年6月、初めて外の目が入った。一時保護を始めたら、児相は7日以内に、裁判官へ「一時保護状」を請求しなければならない、という仕組みだ。裁判官の審査が、初めて制度に組み込まれた。

前進ではある。だが、その中身を見ると、歯止めとしてはまだ弱い。まず、親が保護に同意している場合は、この審査そのものが要らない。次に、裁判官が保護を却下できるのは「明らかに保護の必要がない」ときに限られる——裏を返せば、はっきり不要と言い切れない限り、児相の判断が通る。しかも審査は基本的に書面で行われる。子どもや親に会って確かめる場ではない。実際、この仕組みが始まってからの半年で、児相の請求のうち99パーセントが認められ、却下はわずか3件だったという。外の目は入った。けれど、まだうっすらとしか開いていない。

他の国では、この入口に、もっとはっきりした歯止めがある。

イギリスでは、子どもを親から恒久的に引き離すには、裁判所が「重大な害」があると認定して初めて、命令が出る。決めるのは行政ではなく、裁判所だ。オーストラリアのニューサウスウェールズ州では、子どもを引き取ったあと、原則3営業日以内に、児童裁判所へ申し立てることが義務づけられている。北欧のノルウェーでは、強制的な親子分離を決めるのは、市の福祉の窓口ではなく、裁判所に近い、独立した審判の機関だ。

日本は、引き離す入口が「行政」にある。これらの国は、入口に「司法」や「独立機関」を置いている。ここが、最初の分かれ目だ。

もっとも、これらの入口のチェックには——日本の新しい仕組みも、他国の司法審査も——共通の死角がある。どれも「引き離してよかったか」を確かめるものだ。その反対の、「危険な家へ帰してよかったか」を問う入口は、どこにもない。そして日本では、その帰すという判断こそが、児相の主観ひとつに委ねられている。

先の当事者が味わってきたのは、まさにその、帰す側の判断だった。刃物を向けられて逃げ込んでも、大きな傷がないことを理由に、保護を断られる。傷あとは服で隠れる場所につくのに、目に見えるところだけを見て、問題なしとされる。危ないかどうかを見きわめる目が一つしかなければ、その目が曇ったとき、止める者はいない。

そのうえ、児相の目を曇らせるのは、見落としや力不足だけではない。引き離すべき親ほど、児相の前では別の顔を見せる。職員を前にすれば、物わかりのいい親を装い、神妙に反省してみせる。それで通らないと見るや、今度は逆上して怒鳴り、暴れ、脅す。話せば分かり合えるという前提が、そもそも通じない相手もいる。ごみ屋敷同然のような家での家庭訪問もある。都合が悪くなれば、ある日突然に夜逃げのように引っ越して、姿を消すことさえある。

その巧妙な相手に、1~2人の職員が、たった一部屋で、後ろ盾もなく向き合わされている。ひるんで、当たり障りのない着地——「家庭でよく話し合って」——に流れてしまえば、子どもは、危険な家に残されたままになる。

運用のチェック——児相を、外から見る目

二つ目は、運用のチェックだ。児相が日々くだしている判断や仕事ぶりを、外部の目が定期的に点検し、その結果を公表する仕組みがあるか。

ここが、日本のいちばん大きな空白である。児相の判断や運用を、独立の立場から監査し、評価して公表する常設の機関は、国にも自治体にも無い。

「第三者評価があるはずだ」と思うかもしれない。たしかに、一時保護所については、2024年から外部評価が義務になった。だが、これは保護所という「施設」の生活環境や処遇の質を見るものだ。「そもそも保護すべきだったか」「調査は適切だったか」という児相の判断そのものを監査するものではない。施設は見られても、判断は見られない。ここを混同してはいけない。

この空白のなかで、何が起きるのか。児相での聞き取りが、虐待している親の目の前で行われることがある。子どもが本当のことを言えるはずがない。しかも、親の前で聞いたという事実は、報告書には書かれない。外から検証する目がなければ、こうした運用は、誰にも気づかれないまま続いていく。

他の国は、この運用を外から見ている。

イギリスには、Ofstedという独立の機関がある。全国の自治体の児童福祉サービスを、4段階で格付けし、報告書を公開する。「不十分」と評価されれば、改善を迫られる。アメリカでは、連邦政府が各州の児童福祉を定期的に審査し、基準に届かない州には、資金の一部を止めるという仕組みまである。さらにアメリカでは、地域の市民が児相の実務を検証する「市民審査パネル」を、各州に最低3つ置くことが法律で義務づけられ、その報告は毎年公表される。

こうした外部の監査は、片側だけを見ているのではない。行きすぎた介入も、足りなかった介入も——過剰な分離も、危険の見逃しも——同じ目で点検する。

日本は、施設の評価までは届いた。だが、判断と運用そのものを外から監査する目は、まだ持っていない。

出口のチェック——間違えたとき、声を上げる先

三つ目は、出口のチェックだ。児相が間違えたとき——過剰に引き離してしまったときも、逆に危険を見逃してしまったときも——それを問い、正させ、被害を救う受け皿があるか。

日本では、児相の対応に違法があれば、裁判で損害賠償を求めることはできる。ただし、賠償を払うのは自治体であって、判断をした職員個人が、被害者に直接責任を負うことは、原則としてない。刑事責任が問われることも、まずない。児相が関わっていながら、救えずに子どもが亡くなる——そうした事例は、いまも、毎年のように報じられている。だが、その死のあとに何が起きるかというと、多くは、何も起きない。ある年の集計では、虐待で亡くなった子どものおよそ8割が、独立した第三者による検証を受けないまま終わっていた。検証委員会が置かれた場合でも、するのは原因の分析と再発防止の提言であって、その児相を罰したり、是正を命じたりするものではない。

不服を申し立てる道も、まったく無いわけではない。保護に納得できない親は、審査請求や裁判で争える。だが、その申し立てを審査するのは行政の側であって、独立した第三者ではない。子ども本人が児相の判断を、独立の機関に再び見てもらう専用のルートは、いまも弱い。

ここに、見落とされがちな、けれど決定的な非対称がある。こうした救済の道は、どれも「誰かが声を上げること」から始まる。だが、過剰な介入と、見逃しとでは、声を上げられる人が、まるで違う。児相が親子を引き離しすぎたときには、親という、はっきりした当事者がいる。親は憤り、争い、裁判にも持ち込む。その声が、間違いを表に引きずり出す。

ところが、危険な家に取り残された子どもには、声を上げてくれる人がいない。子ども自身は、加害者と同じ屋根の下で、助けを求める力さえ奪われている。加害している親が、声を上げるはずもない。だから見逃しは、誰にも騒がれないまま進み、多くは、子どもが取り返しのつかない目に遭ってから、ようやく表に出る。過剰な介入は、誰かが騒いで発覚する。見逃しは、子どもが傷つくまで、誰も騒がない。声を上げる人のいない過ちは、声を待っていては、正せないのだ。

そして、子どもの権利を独立の立場から守る機関——国レベルの子どもオンブズマン、あるいはコミッショナーと呼ばれるもの——が、日本には無い。2022年に子ども政策の基本となる法律ができたとき、この独立機関を作る案は見送られ、「検討する」という言葉だけが残された。自治体には、先駆けて作ったところもある。兵庫県川西市は、1999年に、子どものための独立した相談・救済の仕組みを、日本で初めて設けた。だが、それは全国には広がっていない。

他の国は、この出口を用意している。世界で初めて国レベルの子どもオンブズマンを作ったのは、1981年のノルウェーだ。カナダのブリティッシュコロンビア州には、議会の直属で、行政から独立した機関があり、行政が関わっていた子どもが亡くなれば、誰かの訴えを待つのではなく、自ら調べて、公表する。イギリスには、段階を追って苦情を申し立てられる法定の仕組みと、独立したオンブズマンがある。

日本の出口は、賠償と提言のところで止まっている。これらの国は、その先に、独立して調べ、正させる受け皿を持っている。

どこから、変えられるか

すべてを一度には変えられない。だから、順番を考えたい。

まず、せっかく2025年に入った入口のチェックを、育てることだ。書面だけの審査を、子どもや親に会って確かめる審査へ。もう仕組みはある。中身を実のあるものにするかどうかだ。

次に、運用を外から見る目を、施設の評価から、判断の監査へと広げること。イギリスやアメリカがやっているように、児相の仕事ぶりを独立の立場から点検し、結果を公表する。これは新しい発想ではなく、他国では当たり前に回っている。

そして、見送られたままの、国レベルの独立した子どもの相談・救済機関を作ること。自治体には、すでに20年以上前からの先例がある。ゼロから考える話ではない。

もっとすぐにできることもある。虐待の通告があったら、必ず病院で健康診断を受けさせる——そんな仕組みを、法律で決めてしまう手もある。児相が親に話を聞いて、その主観で判断するのではなく、医師という第三者が、体を客観的に確かめる。新しい法律も、巨額の予算も要らない。明日からでも始められる、小さな外の目だ。

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