「あんたが悪い」
母親に謝られたことが一度もない、という人がいる。
叩かれた後にも、怒鳴られた後にも、物を投げつけられた後にも、「ごめんね」はなかった。
代わりに言われたのは、「あんたが悪い」だった。
「あんたがそうさせたんでしょう」
「あんたがお母さんの言うこと聞いてたらこんなことにならなかった」
「全部あんたのせい」
言葉の形は違っても、最後は必ず子どものせいに着地した。何が起きても、親の側に責任が向くことはなかった。
意を決してあの日のことを母に切り出しても、返ってくるのは「いつまで根に持っているの。あんたが悪かったからでしょう。」で終わる。子どもは、その言葉を繰り返し聞かされて育つ。
やがて、母に言われなくても、自分の中で同じ声が再生されるようになる。何かうまくいかないことがあるたびに、「自分が悪かったんだ」と先に思う。
「親の方が悪かったのではないか」と感じることがあっても、その考えそのものに罪悪感がまとわりつく。母を責めようとする自分を、また自分が責める。
しかも、「あんたが悪い」で話が終わるとは限らない。母のなかで怒りが収まらないとき、子どもはさらに次の段階へ追い詰められる。
謝るのはいつも子どもの方だった
ある女性が覚えている、子どもの頃の場面を見てみよう。
夕食が終わったあと、母が黙って洗い物を始める。
水音と食器の音だけが流れている。母親の表情、食器のおき方、部屋を流れる重くるしい空気。父親は早々に書斎へと姿を消す。「今夜も『アレ』か」と心が重くなる。
しばらくして、声がかかる。「ねえ」
普段より、低い穏やかな声だ。優しい声色のときが、いちばん怖い。
居間に呼ばれて、母の前に座らされる。「自分でわかるよね?」
何のことかは、わからない。今回は何がダメだったんだろう。「えっと、お風呂が長かった…こと?」
「違う」
「部屋、散らかってた…?」
「そんな話じゃない」
「……ごめんなさい」
「何に謝ってるの?ママのこと、ばかにしてる?」
心当たりを並べても、ことごとく否定される。やがて、思い当たる節そのものが尽きる。沈黙する。
「何黙ってるの」沈黙しても、いけない。
母の手が、テーブルの上のリモコンに伸びる。背中を叩かれる。腕を叩かれる。頭を叩かれる。
「明日から、ご飯作らないからね」「あんたの物、全部捨てる」
謝れば謝るほど、火に油を注いでいる感覚に襲われる。「ちゃんと頭を下げなさい。額を床につけて」
言われた通りにする。フローリングが冷たい。そのままじっとしていても、終わらない。母の気が済むまで、終わらない。時計の針が日付をまたぐ。やがて母が眠そうに目をこすり、「もういい」と言う。
その夜も、何を謝らされていたのかは、最後までわからなかった。
子どもは、自分が何をしたから謝らされているのかを最後まで知らされないまま、「謝った」という事実だけを積み重ねていく。
では、ふつうの親は、同じ場面で何が違ったのか。




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