虐待を受けた人の中には、子どものうちに自ら助けを求めて、相談に駆け込んだ経験を持つ人がいる。
家のことを外で打ち明けるのは、子どもにとって、大変な勇気が必要となる。親に知られれば何をされるか分からない——その恐怖を抱えたまま、それでも「この大人なら助けてくれるかもしれない」と信じて、震える声を絞り出す。声を上げるまでに、何日も、何か月も迷った人もいる。
だが、勇気をもって信じた相手に、その手を振り払われることがある。それどころか「お前のほうが悪い」と突き返され、やっとの思いで声にした訴えを、なかったことにされてしまう。助けを求めたはずなのに、相談した自分のほうが間違っていたかのように、帰される。過去にも今も、その経験は形を変えて繰り返されている。
本記事では、その「届かなかった声」の事例を並べる。
相談先で、それぞれが言われた言葉
子どもが助けを求めた先は、児童相談所だけではない。警察、学校の先生や保健室、市役所の窓口、そして親族や身近な大人——。相手も、時代も違う。それでも、勇気を出して駆け込んだ先で返ってきたものには、不思議なほどよく似た形がある。誰かが特別に運が悪かった、という話ではない。ここからは、その光景を機関別に見ていく。
児童相談所で
児童相談所は、虐待から子どもを守る、最後の砦とされている。だが、その砦に駆け込んでも、扉が開かないことがある。まず、社会の認識がいまよりずっと浅かった、ある数十年前の話から。
父からの暴力は、いつ始まるかわからなかった。テレビを見ている父の機嫌が悪くなった瞬間、突然、椅子を蹴飛ばしてきた。泣くと、もっと殴られた。だから、殴られても無表情で立っていた。
中学生になった頃から、暴力は日常になった。台所で殴られて学校に行った日もあった。
何度も110番をかけた。震える声で「父に殴られています」と訴えた。警察は来た。だが、父と二言三言かわすと、私の方を見てこう言った——「お父さんも疲れてるんだ。あんまり怒らせるなよ」。そして、すぐに帰っていった。何度も児童相談所にも行った。
児相の職員は、ファイルを開きながら、こう説明した——「大怪我するほどの暴力は振るわれていないですよね」「一時保護所もいっぱいで、なかなか保護には踏み切れないんです」と。
高校卒業まで、その繰り返しだった。後にこの人は書いている——「警察や児童相談所の人にも、裏切られ続けて」。
殴られた痕があるほうが、まだ信じてもらえる——そう思えるほどだ。これも、そう遠くない時代の話。体に痣が残らない虐待は、当時も今も、相談として取り扱われにくい。
母から、毎日のように無視されていた。怖い夢を見て「お母さん」と呼んだ夜、母は私の方に背を向けて、向こうを向いてしまった。親戚みんなのいる前で「この子はどこも可愛くない」とけなされ、何をしても褒められたことはなかった。
8歳のある日、もう耐えきれなくて、自分一人で近所の児童相談所に行った。場所はあらかじめ調べてあった。受付に立ち、震えながら「家にいたくない」と訴えた。
職員はじっと私の顔を見て、しばらく考えてから、こう言った——「あんたがかわいくないから、かわいがってもらえへんのやろ。もっとかわいくして、お父さんにかわいがってもらい」と。
私の頬を見ながら、もう一度繰り返した——「もっとかわいくして」。そのまま家に追い返された。
誰かが気づいて通報してくれれば、今度こそ動いてくれる。そう思いたくなる。だが、これはもっと近年の話だ。通報する人がいても、児童相談所が動けるとは限らない。
母の機嫌が悪い日は、食事が出ない日だった。3日続くこともあった。お腹が空いて、台所で何か探そうとすると、母はキーキーと甲高い声を上げて叱った。冬なのに薄着のまま、学校に行かされた。
隣の家の人が異変に気づき、児童相談所に通報してくれた。私も、隣の人に背中を押されて、自分で児相に行ったことがあった。
職員に状況を訴えた。職員は紙にメモを取り、しばらく考えてから、こう言った——「申し訳ないんですが、こちらでも、どうしようもない時もあるんです」と。
悪意のある言葉ではなかった。だが、それは「あなたを助けることはできません」という宣告に近かった。家に戻ったその夜も、食事はなかった。
一度断られたら、もう二度と行かない——とは限らない。ほかに行ける場所がなければ、子どもは同じ窓口に、何度でも足を運ぶ。そして、そのたびに追い返される。
母はいつも何をするかわからない人だった。テストの点が落ちた日は、それを口実にタバコの火を腕に押し付けられた。長い休みのあいだ、何日もまともに食べられないことがあった。
高学年のころから、私は一人で児童相談所に通うようになった。場所は自分で調べた。最初に「施設に行けますか」と聞くと、職員は「そんなに簡単な話じゃない」と答えた。
通うたびに、返ってくる言葉は似ていた——「お父さんとよく話し合って」。何日も食べていないと訴えた日は、私の体を見て「見たところ痩せてないし」と言われた。あるとき職員は、疲れた声で「あなたが何度も来ると、こっちも手続きが大変なの」とこぼした。
最後はいつも、「で、どうしたいの?」と聞かれた。ほかに行ける場所を教えられたことはなかった。だから「家に帰ります」と答えるしかなかった。
相談に行くたび、それは親に伝わった。帰った夜に、また責められた。何度目かのあとから、私は職員に「もう大丈夫です」と言うようになった。
「指導にとどまった」「機を逸した」「どうしようもない」——児童相談所側の説明には、こうした表現が繰り返し現れる。
警察で
警察は、暴力を取り締まる場所だ。目に見える怪我があれば、さすがに動いてくれる——多くの子は、そう信じて駆け込む。だが、相手が親となると、その期待は裏切られることがある。
母が怒っていた。手にしていたのは、のれんを束ねる金属の棒。その先端がギザギザに尖っていた。それが私の顔に向かって突き出された。間一髪で避けた。だが、目尻に激痛が走った。
家を飛び出して、最寄りの派出所に駆け込んだ。「母にされました」と告げた瞬間、警官の雰囲気が変わった。
「親が子供にしたことに関して、警察は民事不介入で何もできないんですよ」と言われた。怪我がそれほど重くなければ、親の躾との主張で対応しづらい、と。
警察署に移された。定年間近に見える警官が私の顔を見て、こう言った——「どうせ勉強なんかできないんだろう」。
深夜、父が迎えに来た。帰宅後、父は無言で「お母さんを怒らすな」と指示し、入浴と就寝を命じた。
殴られるのとは、わけが違う。命そのものが危ない——そんな場面なら、さすがに保護される。そう思えるときでさえ、結末が変わらないことがある。
中学生のころ、ある夜、母が車で人気のない港に向かった。エンジンをかけたまま、母はこう言った——「お母さんと一緒に死のうか。お母さんは、あなたと生きることに疲れたんよね」。
アクセルが踏まれる前に、ドアを開けて車から飛び降りた。靴も履いていなかった。裸足で走って、近くの交番に駆け込んだ。
「親に殺される」と訴えた。震えが止まらなかった。パトカーで警察署に移送された。だが、警察は私を保護しなかった。
しばらくして、心中しようと言っていた母が迎えに来た。母の隣で、私はそのまま家に連れて帰られた。母は酒臭く、帰宅後も飲み直していた。
どんな被害よりも、口にするまでに長い時間がかかるものがある。誰にも言えないまま、何年も抱え込む子がいる。これは、その一つだ。
父親から毎晩のように性的虐待を受けていた。お母さんの寝息を確認すると、父が布団に入ってきて私の口を塞ぎ、身体中を触られていた。声を上げると、隣の弟まで起きると父は脅した。
父が出張の日、今日しかないと思って警察に駆け込んだ。震えながら必死に説明した。
警察員はしばらく考えてから、こう言った——「あのね、あなたが言うことを警察が受け入れたら、お父さんは仕事を失うことになる。家族みんなが生きていけなくなる。家族のことを考えたら、もう少し我慢できないかな。あなたが我慢すれば、家族みんな平穏に過ごせるんじゃないか」。
家に帰された。何年も、何年も、その言葉が頭から離れなかった。
保護されれば、ひとまず安全——そう思える。だが、一時保護は、終わりを意味しない。保護され、それでも数日で家に戻された子の話だ。
父は、私の成績に異常にこだわった。思うような点が取れないと、何時間も怒鳴り、ときに殴った。受験を控えた冬、口答えした私に、父は台所にあった刃物を向けた。とっさに身をかわして、浅い傷で済んだ。
血が出ているのを見た近所の人が、通報してくれた。私は一時保護所に連れて行かれた。窓のない部屋で、何日も天井を見て過ごした。トイレに行くにも職員を呼ばなければならず、来るまで長く待たされた。
児童相談所の職員は、傷の浅さを見て言った——「本気だったら、こんなものじゃ済んでない」。そして「大事な受験前でしょう。早く帰って勉強したほうがいい」と続けた。
警察でも、話はまともに聞かれなかった。最初から決めつけた口調で、こちらが怒鳴られた。
数日で、私は家に帰された。保護所にいたあいだのことは、まるで自分が罰を受けたようだった。家に戻ってから、父の当たりはいっそう強くなった。
警察に駆け込んだ人にも、駆け込んだあとに「家族のことを考えなさい」と諭された人にも、共通する経験がある。返される言葉は、駆け込んだ側の足を、何度も止めてきた。
学校、先生、保健室で
学校は、子どもが家の外で最も長く過ごす場所だ。異変に気づける大人が、いちばん近くにいる場所でもある。だが、その大人が、気づかないどころか、子どもをさらに追い詰めることもある。
小学5年生のころから、父が夜中に布団に入ってくるようになった。手と足を押さえられて、胸を触りながら「大きくなったな」と言われた。声を上げると、隣の部屋の弟まで起きると父は脅した。
学校に持っていく弁当は、駄菓子(サラダせんべい)が一袋だけだった。母は、私の弁当を作る余裕がなかった。
お昼休み、先生はそれを見て、教室中に響く声で言った——「○○君、おやつの時間じゃないよ」。教室はクスクスと笑った。
翌日から教室に居づらくなり、保健室登校になった。保健室の先生は、毎日「お腹空いてない?」とだけ聞いて、ヨーグルトをくれた。それから「もう少し頑張ったら、また教室で勉強できるようになるよ」と励ました。
父のことは、誰にも言えなかった。
先生に相談すれば、何かが変わるかもしれない。そう信じて、勇気を出す子もいる。だが、相談した相手が悪気なく動いたことで、かえって家庭に火をつけてしまうこともある。
父は教育に異常なまでの熱を入れていた。テストで100点を取っても「こんな簡単なテストで喜ぶな」と言われた。90点を取れば、2時間以上の罵声が浴びせられた。椅子を蹴られて床に倒れ、さらに蹴りを入れられた。
高校3年生のある日、罵声と暴力に耐えかねて、学校の担任に相談した。
担任はしばらく黙ってから、こう言った——「先生もどうしていいかわからない。お父さんと話してみるしかないかな」。
担任の連絡で、その日のうちに父に伝わった。家でさらに激しく殴られた。
ひとりの大人に断られても、まだ別の大人がいる。そう信じて、頼れそうな相手を一人ずつ訪ねていった人もいる。
母の機嫌が悪い夜、私は廊下に正座させられた。床は冷たく、母の罵声が深夜まで続いた。「お前のせいで」「お前がいなければ」。私は震えながら土下座をした。次の日は、学校で何事もないように振る舞った。
高校生になったとき、思い切って、長く通っていた習いごとの先生にメールを送った。「家のことで困っています。少し話を聞いてほしい」と。
返信は、来なかった。1週間待った。2週間待った。来なかった。
次に、部活の顧問に相談した。顧問はしばらく聞いてから、こう言った——「高校生なら働けるんだから、嫌なら家を出れば」。
最後の頼みで、警察に駆け込んだ。警官の返事は、こうだった——「親を悪く言うなんておかしい」。
「誰も助けてくれない社会に絶望するしかなかった」と、後に振り返っている。
相談して、頼れないと分かる。それよりも前に、相談する資格すらないと、思い知らされる場面がある。守ってくれるはずの相手が、親と同じ側に立つときだ。
家では、何をしても親に否定された。学校でいじめられていることも、親は気にとめなかった。
中学のある日の三者面談。担任なら、少しは庇ってくれるかもしれない——そう思っていた。
だが担任は、親の前で私のことをこう言った——「この子は、これといって取り柄がないですね」。親は笑って「そうなんです、家でも何の役にも立たなくて」と返した。担任は「ですよねえ」とうなずいた。
面談のあいだじゅう、二人は私を挟んで、私の至らなさを数え上げていた。守ってくれるはずの相手が、親と同じ側に立っていた。
それから、学校で何に困っても、先生に相談しようとは思わなくなった。
市役所、福祉課で
窓口で追い返されるのは、子どものうちだけではない。大人になり、自分の足で役所を訪ねても、返ってくるものは変わらないことがある。子ども時代を過ぎても、窓口の対応は変わらなかった。
高校を卒業しても、父からは逃げられなかった。夜になると父の足音が怖くて眠れず、日中は働けなかった。
19歳のある夜、ふらふらと夜の街にいた。雨が降っていた。立っていられなくなって、交番に入った。「助けてほしい」と訴えた。警察員は私を見て、こう言った——「どうしてこんな時間にふらふらしているんだ。学校へ行け」。
数日後、市役所の福祉課を訪ねた。「働けないんです」と話すと、職員は顔をしかめて、こう責めた——「どうして働かないのか。若いんだから」と。
具体的な事情を聞かれることはなかった。遠方の職業紹介所のチラシを渡されて、帰された。
家族・親族・身近な大人で
機関ではないが、相談先のひとつとして家族・親族や身近な大人がある。
公的な窓口がだめでも、家のすぐそばにいる大人なら——そう思いたくなる。身近な親族は、子どもの異変に最も早く気づける位置にいる。だが、その近さが、助けにつながるとは限らない。
もう一人の親なら、気づいて、かばってくれるかもしれない。打ち明ける相手が、ほかでもない親であることもある。だが、その親が口にしたのは、まったく別の言葉だった。
二十代になって、ある女性は、ずっと言えずにいたことを、思い切って母に打ち明けた。
「小学生のころ、夜になると、お父さんが部屋に入ってきた。体を触られて、誰にも言うなと口止めされた。お母さんは、本当に何も気づいていなかったの?」と。
母は、洗い物の手を止めなかった。少しの沈黙のあと、こう言った——「考えすぎよ。あの人が、そんなことするわけない!」。
そして、何事もなかったように、別の話を始めた。
打ち明けるまでに、何年もかかった。その告白は、たったひと言で、なかったことにされた。
親がだめでも、祖父母なら逃げ込ませてくれる。血のつながった親族なら、かくまってくれる——そう信じて身を寄せた子もいる。だが、その家にも、いられる時間には限りがあった。
父の暴力が続いた中学生のころ、ある人は祖父母の家に身を寄せた。父の母である祖母は、最初は優しく迎えてくれた。
しかし1週間も経つと、祖父母の態度は変わった。「いつまでいるつもりだ」「親には親の事情がある」と。
ついに、祖父からこう言われた——「あなたが親を捨てたんだから、一人で生きていきなさい」。
帰る家がない、と訴えても、祖父母は譲らなかった。荷物をまとめて、追い出された。
命の危険から、とっさに逃げ込める先は、近くの親戚の家しかない。だが、夜中にたどり着いたその家で、ドアが開かないこともある。助けを求めた相手が、親の側に立つからだ。
親から包丁を向けられたことが、何度もあった。父が酔って帰った夜、母が父に殴られた夜、なぜか矛先は私に向けられた。「お前のせいで」「お前がいなければ」と父は叫び、台所から包丁を持ち出した。
怖くて、夜中に親戚の家まで走った。叔母の家のチャイムを押した。叔母は私の顔を見て、しばらく無言で立っていた。
それから、こう言った——「親に恥をかかせるな」。
ドアは閉められた。家に帰るしかなかった。
どこにも相談先がなければ、最後に残るのは、その親自身しかいない。家にも学校にも居場所のない子が、勇気を出して親に直接ぶつけた言葉もある。だが、返ってきたのは、ひと言で終わる相づちだった。
中学に上がってから、クラスの誰からも口をきいてもらえない時期が続いた。「バイキン」と裏であだ名をつけられていた。家でも、母は私が話しかけると、うなずくだけで目を合わせなかった。学校にも家にも、自分のいる場所がない気がした。
ある晩、思いきって食卓で打ち明けた。学校で無視されていること、家でも、いないことにされているように感じること。
母は箸を止めずに、こう答えた——「みんな、そういう時期があるのよ」。
父は、スマホから顔を上げなかった。それきり、話は流れていった。
私は黙って席を立った。それからは、家でも外でも、本音を言うのをやめた。
気づいたはずの大人が、見ないことにする——そういう場面は、家庭の周りに繰り返し現れる。
小学6年生だったある朝、母に物干し竿で打たれて、腕と首すじに赤紫の痣ができた。長袖でも隠しきれなかった。
その日、宅配便を届けに来た配達員が、玄関で私の腕に気づいて、動きを止めた。「……それ、どうしたの。大丈夫?」と、声をひそめて聞かれた。
奥から出てきた母が、私の肩をつかんで後ろへ下げ、笑顔で言った——「この子、よく転ぶんですよ。すみませんね」。そして、ドアを閉めた。
配達員は、それ以上は何も聞かず、去っていった。気づいてくれた人は、確かにいた。それでも、何も変わらなかった。
痛いと言えば、もっとやられる。だから、いつのまにか、痛いとも言えなくなっていた。
この続きは——なぜ、その声は届かないのか
これらは、個別の不運ではない。時代も相談先も違うのに、駆け込んだ窓口では、似た光景が繰り返されてきた。
では、なぜこれほど同じことが起きるのか。その「届かない仕組み」を、当事者自身の視点から解きほぐす。
後編「なぜ、その声は届かなかったのか」に続く。
[SWELLブログカード:後編「届かなかった声の話——なぜ、その声は届かなかったのか」]








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