「絶対にあの親のようにはならない」と誓ってきた人が、ある日気づく。我が子に向けた自分の言葉や態度が、かつて自分が経験したものと似ている、と。
この気づきは非常に苦しい。しかしここで立ち止まって、正確に考えてほしいことがある。「似ている」「繰り返している」と感じたとき、実際に何が起きているのかは、一つではない。
この記事では、「繰り返し」に見えるものの中にある二つの構造を区別しながら、その出口を解説する。なお、「虐待の世代間連鎖」の確率と実態について先に知りたい方は、以下の記事をご覧ください。
第1章 「連鎖」と呼ばれるものの中にある、二つの違い
「虐待は連鎖する」という言葉は、二つのまったく異なる現象を一緒くたにしている。
一つ目は、知的障害を持つ親から知的障害を持つ子へと、知能の特性が遺伝し、その子が親になって同様の虐待をするケースだ。これは「虐待経験が受け継がれる」のではなく、「虐待が起きやすい認知の特性が受け継がれる」という構造だ。このサイトの他の記事で詳しく解説している。
二つ目は、被虐待体験を持つ親が、自分の子育ての中で「あの親と似たことをしてしまった」と感じるケースだ。これはさらに分けて考える必要がある。
被虐待体験を持つ親が、知的障害がなくても本当に子どもを虐待してしまうことがある。研究上の連鎖率2〜3割の一部がこれにあたる。しかしこのケースは、治療が効く。自分がしていることへの認識があり、葛藤がある。その葛藤こそが、変化の入口になる。
そして、最も多くの被虐待体験を持つ親が経験するのは、「本当の虐待」ではなく、「恐怖に縛られた心が引き起こす、虐待に見える反応」だ。この記事で主に扱うのはこちらだ。
この区別は重要だ。なぜなら、二つは原因も構造も異なり、したがって出口も異なるからだ。
また、世代をまたいで親の知的障害と被虐待体験が複合する場合、さらに異なるパターンが生まれる。この複合パターンについては、別の記事で詳しく解説している。
第2章 「恐怖に縛られた心」が子育ての中で動くとき
被虐待体験を持つ親が「やってしまった」と感じる場面には、大きく二つの異なる構造がある。
一つ目は、子どもが甘えてくる場面だ。
「ねえ、一緒に遊ぼう」「見て見て、これ作ったんだ」──そういう子どもの声に、普通の親なら自然に応じられるはずのことが、できない。
被虐待体験を持つ親にとって、誰かに何かを求めるということ、誰かに受け取ってもらうということは、長年禁じられてきた行為だ。「愛情を求める気持ちを持つこと」そのものが危険なこととして学習されてきた。
だから、子どもが純粋に甘えてくるとき、その子どもの姿が自分の中の何かを揺さぶる。自分が長年押さえ込んできた「受け取りたい」という気持ちが、崩れそうになる。その恐怖から、冷たくなる。あるいは、何かしてあげたいと思っても「甘やかしている」という感覚が湧き上がって体が固まる。
動機は子どもへの悪意ではない。むしろ逆だ。それでも、結果として子どもは「何かを求めると冷たくされる」という体験を積み重ねていく。
二つ目は、子どもが自由に感情を出す場面だ。
「嫌だ」と泣く、「やりたくない」とわがままを言う、悔しくて地団駄を踏む──普通の親には「子どもらしい」としか映らない姿が、被虐待体験を持つ親には強い感情を引き起こすことがある。
被虐待体験を持つ人は、感情を自由に出すことを長年禁じられてきた。悲しいときに泣けなかった。怒っても怒りを表に出せなかった。「感情を出すことは危険だ」という学習が、体に深く染み込んでいる。
そこに、何の制約もなく感情を出している子どもがいる。その姿を見たとき、言葉にならない怒りが来ることがある。「私はずっと我慢してきた」という、感情を禁じられてきた自分自身の歴史への怒りが、子どもに向かうものだ。
これは子どもへの怒りではない。しかし子どもにはわからない。子どもが受け取るのは「感情を出すと怒られる」という体験だけだ。
どちらの場面においても、これは知的障害の親が認識なく行う虐待とは根本的に異なる。被虐待体験を持つ親は、誰より連鎖を恐れ、懸命に抑えようとしている。それでも、恐怖の力が意識の力を上回る瞬間がある。これが「虐待に見える繰り返し」の正体だ。
では、この「繰り返し」が起きやすい条件とは何か。そして、気づいた人にどんな出口があるのか。次章から解説する。
連鎖が起きやすくなる条件は3つある。そして気づいた当事者が取れる出口は、思っているより少くない。










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