虐待を受けた本人の多くが、自分が虐待を受けていること・あるいは過去に受けていたことに気づかない、ということがある。
ある人は「おかしいと気づく『視点』自体が、自分の中になかった」と振り返る。あるいは、「生まれながら一緒にいた家族から、自分が虐待されているなんて、一度も考えたこともなかった」と——。
道で殴られれば、誰でも「殴られた」とわかる。お金を盗まれれば「盗まれた」とわかる。通常、被害は被害として認識される。しかし虐待では、それが起きにくい。殴られても、なじられても、本人が「自分は被害を受けている」と気づかない。なぜそんなことが起きるのか、本稿で掘り下げていく。
自覚されないまま続く、4つの場面
虐待は、テレビドラマなどで目にするような悲惨な様相であるとは限らない。外からは、立派なご両親と優秀なお子さん、みたいに理想的な一家に見えていることもある。現在、児童相談所に寄せられる虐待相談のうち、最も多いのは心理的虐待で、全体の約6割を占めている。心理的虐待は外形に証拠を残さないが、虐待相談の中で最も多い類型である。
家庭内に潜むのは、例えば次のようなものである。
- 言葉遣いの厳しさ
- 親の共感不足
- 過保護・過干渉
- 陰口
以下では、自覚されないまま続いてきた4つの場面を順に見ていく。
過干渉の家庭
両親の干渉が日常を覆う家庭の場面を見てみよう。
教育に並々ならぬ熱を傾ける父と、専業主婦の母に育てられた子がいた。父は地元で名の知れた職に就き、外から見れば申し分のない家庭だった。
父と母は、長年の不妊治療を経てようやく自分を授かったのだと、祖母から聞かされて知っていた。そこまでして望まれて生まれた子なのだから、自分は親に深く愛されているはず——その信頼が、後に続くすべての過干渉を「心配の表れ」と受け取る土台になっていた。
門限は18時。高校生になっても、大学生になっても、それは変わらなかった。出先からは母に電話で逐一報告することが当然になっていた。友達と遊ぶ予定を伝えると、相手の家庭環境まで母が確認したがった。進路は、本人の意思より両親の希望が優先された。
それを「過干渉」だと、本人は思っていなかった。「自分のことを心配してくれているんだ」と受け取っていた。
母から息子への性的虐待
気づかれにくい虐待は心理的なものに限らない。性的虐待にも、自覚されにくい類型がある。
世間が「性的虐待」と聞いて思い描くのは、父から娘へのケースだろう。しかし、母から息子への性的虐待は、その典型像とずれているために、被害者本人にも周囲にも、いっそう気づかれにくい。
母と息子の関係の場面を見てみよう。
一人っ子だった。シングルマザーの母が、つきっきりで育ててくれた。大事に育てられたという感覚は強い。
母とは長らく一緒に風呂に入っていた。母のそれを見ていたし、たまに触れることもあった。互いの体を洗い合うこともあった。母から自慰の手ほどきを受けたこともあった。
自慰のことまでは言えなかったけれど、お風呂のことを話したら、友人に「それは普通ではない」と言われた。何がおかしいの?とそのときは思った。自分がおかしいと言われるのは心外だった。母と自分にとっては、ごく当たり前のことばかりだった。それが異常なことだとは思ってもみなかった。
世間で言う「性的虐待」は、父親が娘に手を出すような話だと思っていた。母と自分は、そこには当てはまらないはずだった。
「お前のため」と意味づけられた攻撃
明らかな攻撃があっても、それを「自分のせい」と受け取ってしまうケースがある。
母が無視したり、些細なことで怒ってくることに関して、真意は分からなかったが、虐待されている自覚はまったくなかった。
母が怒る原因は、自分にあると考えていた。母が怒るのは、自分が小さい頃に何かしでかして、それに対してずっと怒っているのだ、と。だから無視されたり、怒鳴られても仕方がないと思い込んでいた。
翌日に父から「いやなら黙っていないで何か言い返せばいい」と言われ、なおのこと自分に非があると錯覚していた。父が母の暴言を止めずに見過ごしていただけなのだが、当時は自分のことを慮っての行為だと錯覚していた。
あるいは、こんな場面もある。
給食のおかずをこぼして、服に大きなシミを作ってしまった。学校から帰宅して母親にそのことを謝った。
母親は黙って子供部屋に入り、ずっと集めてきたキャラクターカードを、目の前で1枚ずつビリビリに破いていった。
涙が止まらなかった。母は「お前が物を大事にしないから、ママが教えてあげているんでしょ」と言った。
何も言えなかった。
「これくらいで手加減してやって、感謝しろ」
しかし逆に、傍から見れば明らかに「ひどい」と分かる虐待であっても、本人がそれを虐待だと認識していないことがある。殴られても、蹴られても、罵られても、それが「家のふつう」になっていれば、被害として立ち上がらない。
気づかれない虐待は、軽い虐待のことではない。気づかれる/気づかれないは、虐待の程度ではなく、本人と家庭との関係の中で決まる。
小学校1年生のとき、部屋の壁から壁まで吹き飛ぶくらい蹴り上げられたことがあった。それでも、自分が虐待されているとは思わなかった。
半殺しのような目に遭ったあと、決まって父はこう言った。「お前なんて本当は殺せる。これくらいで手加減してやって、感謝しろ」「俺はお前に分からせるために、わざわざ手を焼いてやってるんだ」と。
その言葉を、本気で受け取っていた。手を煩わせてしまって申し訳ない、と本気で思っていた。蹴られたことよりも、父にそこまでさせてしまった自分の至らなさのほうが、頭を占めていた。
4つに共通する命題
被害の重さと、本人の自覚は比例しない。加害者が日常的に「お前のためだ」「お前が悪い」と意味づけを与え続けてきた場合、暴力が激しいほど、本人はそれを「自分への罰」として受け止め、虐待として認識する道が塞がれていく。
殴られても、辱められても、攻撃を「自分のせい」と受け取ってしまう——この錯覚は、いったいどんな仕掛けで作られているのか。








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