前編では、子どもが勇気を出して駆け込んだ窓口で、どんな言葉を返されてきたかを並べた。児童相談所、警察、学校、市役所、そして身近な大人——相手も時代も違うのに、「助けてもらえなかった」結果は、よく似ていた。
なぜ、これほど同じことが繰り返されるのか。
後編では、その「届かない仕組み」を、現代の事例をたどっていく。
届かない罠
子どものころ虐待を受け、児童相談所や警察に何度も助けを求めながら、そのたびに家へ戻された——そうした当事者たちの証言を重ねていくと、「なぜ届かないのか」の仕組みが、内側から見えてくる。ここでは、その構造を七つに分けて整理する。
子どもは、最初から全部は話せない
聴き取りの一回目に何も出てこないことは、虐待がない証拠にはならない。深刻な被害ほど、子どもはすぐには打ち明けられない。性被害や、何度も殺されかけたような経験を抱える子ほど、まず些細なことを話して、相手が信用できるか——きちんと聞き、嘘扱いせず、親の肩を持たないか——を確かめてから、少しずつ話す。
現場では、この「すぐには話せない」という性質が、逆手に取られることがある。一回目の聴取で何も出てこないと、「本人が話さないのだから、こちらにはどうしようもない」と打ち切られてしまう。時間をかけて信頼を築くことも、安心して話せる場所や聞き方を工夫することもないまま、「相談に来たのに、何も言わなかった子」として片づけられる。
そもそも、本当のことを打ち明けるには、「話したら、必ず守ってもらえる」という保証がいる。口にした瞬間から、親の報復という危険が始まるからだ。だが、その保証を求めて「言ったら、必ず施設に入れてくれますか」と尋ねても、返ってくるのは「それは約束できない」という言葉だった——確実に守られるかどうかも分からないまま、最大の危険だけを引き受けて話せというのは、無理がある。言いよどんでいると、「今日はここまで。続きは、また次の面談で」と先送りされ、振り絞った決死の覚悟だけが、行き場を失っていく。
話せないのは、子どもの落ち度ではない。それなのに、話を引き出す工夫をしなかった側ではなく、話せなかった子どもの側が、その結果を引き受けることになる。沈黙は「助ける必要がない」サインとして読まれ、支援対象から外されていく。
相談が、親に筒抜けになる
上で述べた通り、子どもが相談すること自体が、危険と直結している。相談した事実が、そのまま親に報告されてしまうことも決して少なくない。学校の先生にそっと打ち明けた話が、その日のうちに「お子さんがこんなことを言っていて」と、親へ電話で伝えられる。児童相談所に通告が入っても、確認はまず親への連絡から始まり、子どもが「誰にも言わないで」と託したはずの中身が、そっくり親の耳に入る。
聴取そのものが、親の目の前で行われることさえある。三人で囲む、小さな面談室。子どもの隣には、ほんの少し前まで職員に「この子は昔から嘘つきで、困っているんです」と愛想よく話していた親が座っている。職員は穏やかに促す——「僕たちもいるから、安心して、何があったか話してごらん」。
だが、ここで本当のことを言えば、面談が終わって家に帰れば、自分はこの人と二人きりになる。その夜に何が起きるかを、子どもはいちばんよく知っている。長い沈黙のあと、子どもは絞り出すように、自分でそれを打ち消してしまう——「……ごめんなさい、勘違いでした」。
職員は、それを書き留める。報告書に「親の同席のもとで聴き取った」とは残らない。記されるのは「本人が訴えを撤回」「親子間のトラブルと思われ、指導で対応」といった一行だけだ。そして子どもは、その日のうちに家へ帰される。たったいま自分に訴えを取り消させた、その相手と一緒に、また同じ屋根の下へ。
一度通告して親に知られれば、家ではさらに激しい報復が待つ。だから子どもは、次の聴取があったとしても口をつぐむ。「もう叩かれていません」という言葉は、事実ではなく、恐怖による撤回だ。そして中途半端に介入されるほど、「助けてほしい」はやがて「誰にも知られたくない」「余計なことをしないでほしい」へと変わっていく。
「どっちもどっち」で済まされる
調査の結果として「どちらも悪い」とされるのではない。調べる前から、そう決められている場合がある。
「加害者たちが騒ぐと面倒だから、どちらも悪かったことにしてお茶を濁そう」と、最初から決めつけて対応したかのような結果だ。
そして、変えやすいほうへ介入が向かう。親の性格は変えられないから、子どもを変えさせようとする。子ども側に、加害される理由をこじつける。あるいは、虐待する親とうまく付き合うように、子どもの側へ強要する。
聞き手の「中立」も、よく見れば傾いている。「一方の話だけ聞くのは不公平」と言いながら、虐待親の話はあっさり信じる。そして一度信じると、子どもの話は全部嘘だと決めつけて、耳を貸さなくなる。
加害者の言い分のほうが通る
子どもの証言より、親の説明のほうが信用される。親は外面がよく、嘘がうまい。たとえば、実際は、親が機嫌の悪さから一方的に殴りつけている。それを親は「この子が口答えして、弟にまで手を上げたので、しつけのために叩いた」と説明する。殴られるだけの落ち度が子どもの側にあったことにして、暴力を「しつけ」へとすり替えるのだ。こうした嘘で、保護も事件化も止まってしまう。
そもそも聞き取りの相手が偏っている、という指摘もある。虐待死事件の報告書を見ると、児相は親と数十回もやり取りしているのに、子どもや通告者とはほとんどやり取りしていない。情報源が加害者の側に偏れば、評価もそちらに引きずられる。聴く相手を、最初から間違えている。
家庭に戻すことが、目的になっている
制度には、「子どもはできるだけ家庭で育つのがよい」という前提がある。親子の絆を大切にし、安易に引き離さない——本来は、子どもを守るための考え方だ。だが虐待のある家庭では、この前提が「とにかく家に戻す」という圧力に変わってしまうことがある。
子どもが「施設に行きたい」と願い出ても、簡単には通らない。「親のいない子が、どれだけ実の親と暮らしたいと思っているか」と諭され、まるでわがままであるかのように扱われる。手放すと親が口にした、その瞬間にさえ、引き留めは働く。面談で親が癇癪を起こし「じゃあ、ここに置いてくわ」と言い放ったとき、職員が慌てて、親をなだめ始めた——そんな場面さえある。
そして報告書には「本児は家庭への帰宅を希望」と書かれる。だが、保護という選択肢を説明されないまま「で、どうしたいの?」と問われれば、子どもは「家に帰る」としか答えようがない。「帰宅希望」は、そうやって作られていく。
一時保護されても、大半の子はやがて家に帰される。いったん施設へ移った子でさえ、「家庭に戻す」方針のもとで親元へ返され、その先で命を落とした例もある。戻る先が、暴力や飢えの待つ場所であっても、制度の針は「家庭へ」と振れ続ける。そこが本当に、子どもにとって帰るべき「家庭」と呼べる場所なのか——その問いは、後回しにされたままに。








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