「自分がしたことを認め、謝ってほしい。」
「なぜ自分に虐待をしたのか、理由が知りたい。」
「いつかは親も変わってくれるはずだ。」
被虐者が虐待親に対してこういった願いを持つことはごく自然なことです。
されたことの残酷さを考えれば、謝ったからといって水に流せる訳は決してなくても、真の謝罪が一言でもあれば、それは被虐者にとって大きな意味を成しえます。
しかし、残念なことですが、そういった日は来ないと思っておいた方が良さそうです。
「なぜあんなことをしたのか」と尋ねたとき、返ってくること
被虐者が大人になってから、子供の頃の虐待について、なぜあんなことをしたのか尋ねても
- 記憶にない
- そんなことしていない
- 過去のことをほじくり返すな
- あの時のあれはお前が悪かったからだ
- あれくらいのことでまだ根に持って、親を悪者扱いして、お前の方が酷い人間だ
などと、返り討ちにあってむしろ傷を深めてしまうかもしれません。
あるいは形式的で誠意のない謝罪など、被虐者が到底受容できないような質の謝罪となるでしょう。
「謝れない親」とは、どういう親なのか
虐待親が謝罪も反省もしない理由を「意地が悪いから」「自分が可愛いだけ」と捉えることは自然なことです。しかし被虐者を支援してきた専門家たちの見立ては、それより根の深い場所を指しています。
あらゆる虐待の根底に共通してあるのは、「心理的ネグレクト」と呼ばれる状態です。
親が子の痛みや悲しみを自分のことのように感じられない——これが、暴力の有無にかかわらず、すべての虐待の基盤にあるとされています。
この「心理的ネグレクト」が親に生じる理由には、大きく三つのパターンがあります。
ひとつは、親に軽度知的能力障害や境界知能がある場合。子の気持ちを自分のこととして想像する力そのものが生まれつき備わっておらず、虐待という認識自体が成立しにくい状態にあります。謝罪には「自分が相手を深く傷つけた」という理解が前提として必要ですが、その土台そのものが欠けています。
2つ目は、親に統合失調症や重度のうつ病などの深刻な精神障害がある場合。親は正常知能を持っていますが、後天的な精神障害であるために正常知能の機能が阻害されています。このケースは症状が強ければ周囲が気づきやすく、支援が届くことも少なくありません。
3つ目は、親自身が虐待を受けて育った場合です。自らが被虐者である親は、子にどう接していいかがわからず、むしろ親自身が深く苦しんでいることが多い。このケースは、母親自身への支援によって、親子間の心の絆を取り戻せる可能性があります。
この三つのうち、最も多く、かつ支援がもっとも届きにくく危険なのが——軽度知的能力障害、特に境界知能を持つ親の場合だとされています。
それでも確認したい気持ちは、あって当然
大人になった今だからこそ親本人に聞いて確認したい。そういった気持ちはあって当然ですし、その確認行動は大事なプロセスとなり得ることは事実です。
なので確認行動をとらないでほしい、ということではなく、
虐待親と対峙して、また飲み込まれてしまわないように
その日が来ると信じて、永遠に親に尽くし続けてしまわないように、
上記のことを事前に知っておいて頂ければ幸いです。
なぜ、来ないとわかっていても待ち続けてしまうのか
「そんな日は来ない」と頭ではわかっていても、待つことをやめられない——多くの被虐者がこの矛盾の中にいます。それはなぜでしょうか。
虐待環境で育った子どもは、生き延びるためにある「生き方の型」を身につけます。
虐待環境を生き延びるために身につけた「型」
危険な環境の中でいのちをつなぐための、合理的な選択だった。
問題は、環境が変わっても「その生き方」は残り続けることです。
謝罪や変化を「待ち続ける」行動も、この枠組みの中にあります。
「まだ待っている」という状態は、「まだ親との関係は終わっていない」ことを意味します。親から離れることが命に直結していた環境を生き抜いた子どもにとって、「親への期待を手放す」ことは、単なる諦めではなく、自分の存在基盤そのものを揺るがすような体験になりえるのです。
また、ある臨床家は、「親を恨んではいけない」という思い込みが、虐待親の支配を維持する道具になりうることを指摘しています。
口論が不利になると決まってこちらを「悪者」に仕立てるようなふるまいに出ることで、被虐者は「やはり自分が悪いのか」という混乱の中に置かれ続けます。
その混乱が解けない限り「相手に認めてもらう」こと——すなわち謝罪——が心の解決の唯一の道に見えてくる。こうして被虐者は謝罪を待ち続ける状態に縛られます。
待つことをやめることは、その循環から抜け出すことでもあります。
知的障害・境界知能の親には、「その日」はまず来ない
被虐者が我が子に虐待をしてしまった場合は、親自身の心の治療を行うことで「その日」が訪れることはあります。しかし、虐待親が軽度知的障がいや境界知能者だった場合、「その日」が訪れることはまずありません。
虐待をしたという認識がそもそもかなり低く、動機も子育てストレスの発散や自己顕示欲の解消といったものがほとんどです。自分がやったことの大半は時間とともに記憶から消え、残っていたとしても「これは虐待だった」と捉え直す力が育っていないため、謝罪の入口に立つことができません。
「待つことをやめる」ことは、親への裏切りではない
謝罪や変化を期待することをやめること——それは、親を見捨てることでも、関係を断ち切ることでもありません。ただ、回復への歩みを自分の手に取り戻すということです。
感情を「感じてはいけない」と封じようとすればするほど、それは意識の底で力を増し続けます。逆に、その感情を「感じていい」と自分に許したとき、むしろ自然に落ち着いていく——そのような逆説が、回復の現場では繰り返し語られます。謝罪への執着を手放すことも、同じ構造の中にあります。
謝罪を待ち続ける心の底には、「あの人はいつか、自分のしたことの重さに気づくはずだ」という期待が潜んでいることが多い。しかし虐待親の多くは——特に知的障害や発達障害を持つ親は——そのような内省を経験する回路そのものが育っていません。「気づいて苦しんでいるはずの親」という像は、被虐者が長年かけて作り上げたものであることが少なくなく、その像を手放すことが、回復へ向かう入口になります。
謝罪がなくても、あなたがされたことは本物の傷です。その傷は、相手が認めるかどうかとは無関係に、すでにあなたの中に存在しています。回復は謝罪を受け取った後に始まるのではありません。謝罪がなくても、あなたには回復を始める権利があります。










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