「親子なら分かり合える」「親はいつも、我が子のことを想っている」。——これは普通の親元で育った人たちの間の共通理解です。
しかし当然ですが、この前提は、虐待サバイバーである被虐者には通じません。にもかかわらず、社会のあらゆる場面でこの前提が無自覚に繰り返され、被虐者を二重に孤立させている現実があります。
普通の親元で育った人の感覚
普通親育ちの人たちは時折、友人や同僚に、親のことを話します。
「うちの親は本当にお節介で」「口うるさくて」「高校の頃、こんなことがあって大喧嘩してさ……」。
そんな愚痴をこぼしながらも、心の内には親との睦まじさが根底にあることを、話し手も受け手も感じ取ります。
普通の親子間の喧嘩は、親が子を心配していることの裏返しであり、子どもの心の成長の証でもあります。それは健全な「怒りのぶつかり合い」であり、ぶつかり合いながらも互いを尊重し合っているのです。
「分かり合える」は前提ではなく、積み上げの結果だった
「親子なら分かり合える」という感覚は、どこから来るのでしょうか。それは生まれつき備わっているものではなく、幼少期の繰り返しの体験の中で積み上げられていくものです。
子どもが泣いたとき、親が応答する。子どもが怒ったとき、親が受け止める。子どもが嬉しいとき、親が一緒に喜ぶ。
こうした「感情を発したら受け取ってもらえた」という体験が何百回、何千回と積み重なることで、「この人は私を分かってくれる」という感覚が体に刻まれていきます。
あるカウンセラーは「子の心を自分のことのように感じてしまうのが『普通の親』だ」と言います。子どもが悲しいと親も胸が痛い。子どもが怖いと親も不安になる。
その感情の共鳴が、「分かり合える」という体験の土台になります。この感情の回路が最初から機能しない親のもとに生まれた子どもは、「分かり合える親」を体験したことがほとんどないまま育ちます。
被虐者にとっての「親」
被虐者にとって、「親」という存在は普通親育ちとは全く違う意味を持ちます。彼らにとって親とは、安心をくれる存在ではなく、恐怖の対象でした。「親子なら分かり合える」という世間の前提が通用しない世界です。
しかし、世の中の多くの人は「親子なら分かり合える」という前提で、被虐者にも話しかけてきます。





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