回復の途中で、ふとこんな言葉が口をついて出ることがある。「ずっと、歪めて生きていた」と。
嘘をついて生きていたということではない。意図的に自分をだましていたということとも、少し違う。では「歪めて生きる」とはどういうことか。
1. 「歪めて生きる」とはどういうことか
「歪み」とは何か。事実は消えない。しかし、その事実に与える「意味」が現実からずれていく——それが歪みだ。
怒鳴られた。殴られた。無視された。出来事そのものは記憶に残る。ただ、その出来事の受け取り方が変わる。「怒鳴られた」が「私を心配してくれているからだ」になる。「殴られた」が「私が悪いことをしたからだ」になる。事実と、意味のあいだに、ひずみが生じていく。
なぜそんなことが起きるのか。
純真に親を愛し、そして愛されたいと真っ当に願う子どもは、たとえ親から渡されたのが「毒リンゴ」であったとしても食べてしまう。呪いを愛情だと思ってしまい、受け取ってしまう。大事に大事に握りしめてしまうことさえある。
親を愛するように設計されているまだ小さな子どもにとって、親を愛することを止めるということは不可能に近い。だから「毒を毒と知りながら飲む」のではなく、「毒を愛情と解釈して飲む」。この解釈のずれが、歪みとなり、その後の人生の中で歪みを強めていく。これが「歪めて生きる」ということだ。
この歪みは一度に完成するのではない。親が土台を作り、外の世界との出会いが矛盾を生み、その矛盾を解消しようとする中で少しずつ深まっていく。以下でその流れを追う。
2. 親が植え付けた「現実」の中で育つ
子どもが最初に学ぶ「世界の意味」は、親から教わる。
何かがうまくいかないとき、親が「あなたのせいだ」と言えば、子どもはそれを真実として受け取る。怒鳴られるたびに「私がいけないから」と解釈するのは、子どもが弱いからではない。子どもにとって、親の言葉は世界の定義そのものだからだ。
「お前が悪いから」「あんたのせいで」——こうした言葉が日常的に降り注ぐ家庭で育った子どもは、自分が原因であるという解釈をごく自然に身につけていく。これはまだ歪みではない。外の世界を知らない子どもにとって、それが「ふつう」だからだ。
比べるものがない。逃げ場もない。「これはおかしい」と気づくためには、「おかしくない世界」を知っていなければならない。しかし幼い子どもには、それがまだ存在しない。
「これはおかしい」と名づける言葉もなかった
感覚として、どこかが重い。息が詰まる。でも、それが何かわからない。「普通の家庭」がどんなものかを知らない。苦しさには名前がなく、名前のないものに向き合う術もない。
その状態のまま、子どもは育っていく。
3. 「うちと違う」——外の世界を知った瞬間
やがて、外の世界が少しずつ見えてくる。








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